父親の死・灰色のオーラ
今こうして、まるで抜け殻のように何とも言えない喪失感を引きずっている。
私はそんなに夫を愛していたのか?自問自答する。
少なくとも、私を守ってくれる存在、夫として、父親として、の信頼はあった。
あの日の朝までは。
何度も私を騙した不倫夫はいらない。
出て行ってもらって、良かった。
と少しずつ感じている。
でも人間として信頼していなかった。
もちろん、3年前の不倫があったからだ。それは、どの不倫夫を持つ妻ならば同じであろう。
信頼していなかったその例を語りたい。
私の両親は私が11歳の時、母が家を飛び出す形で離婚となった。それ以来、父とは一度しか会っていない。
35年も前のことだ。当時は養育費や父との面会交流など、重要視されていなかった時代。父に会えないことは何とも思っていなかった。誕生日にも、一切お祝いもしなかった父。むしろ、死んだ、と思っていたくらいだ。父がほどなく再婚し、異母妹がいることは風の便りに知っていた。
そんな母が常日頃言っていたことは、「あんたのお父さんが死んだら、かならず連絡がくる。遺産相続でしっかり貰いなさい!」
どうでもいいと思っていた。
母も70歳を迎えた2015年、母の友人から電話があった。
「あんたのお父さん、死んだみたいよ。」
でも、だれも私と弟に連絡はくれない。なぜ?私たちの合意がなければ、相続ができないはず・・・
死を知って、一年以内であれば、相続の権利はある。不倫問題の際、別居を諫めたM弁護士に依頼した。
後妻はすでに死去。相続人は私と弟と、異母妹の3人。
私たちに連絡がいかなかった理由。それは、遺言状があったのだ。
Y子(異母妹)いままでありがとう・・・云々。幸せだった。中略ーささやかながら全財産をY子に贈る。
ちなつ、K司へ。
私は再婚して幸せだった。Y子は後妻が逝った後、私をよく助けてくれた。君たちも色々あるだろうが、遺留分は請求せず、遠くからY子を見守ってほしい。
弟と私。
すでに40代、
いい年して、私は泣いた。
死んだものだと思っていた父に、最後まで冷たくされた。
それなりに母子家庭で苦労してきた私たち。子供に罪はない。
『父親らしいことしてやれず悪かった、』など、謝罪の言葉も、私たちを気遣う言葉も、会いたい、という愛情も、一切なかった。
とにかく、「遺留分は請求してくれるな」というメッセージだけだった。
いくら私の母が憎かったとしても、子供には罪はない。
どうでもいいと思っていた父。
でも、自分の中に流れる父の血を感じるたび、幼いころ、父がたくさんの漫画を描いて私を驚かせたことを思い出す。
絵心のあった父。
私もその才能を受け継ぎ、絵が得意だ。
35年間、どうでもいいと言いながら、父が誇らしいとどこかで思っていたのだ。
その気持ちが、一瞬で踏みにじられた。
もう一度言う、子供に罪はない。己の子なら、最後まで愛情があるものではないのか。
子を持つ身の今、わが子への思いを知る今だからこそ、父の気持ちが理解できなかった。
傷ついた弟と私は、遺言状に関係なく、法的権利の遺留分を請求した。幸い、父にはサラリーマンより多めのたくわえがあり、六分の一であっても、私と弟に十分な遺産が入った。
M弁護士は言った。お二人には、つらい遺言状でしたね・・・。
その受け取った遺産。弟は奥さんと相談し、教育資金にすると決めたようだ。
私も、気乗りしなかったが、夫に話そうと思った。
その前に、遺言状がつらく、傷ついたこと、その気持ちをわかってほしくて、夫と膝を突き合わせて座った。
私は泣きながら、その遺言状でさらに傷ついたこと、父を心のどこかで慕っていたことを裏切られた気持ちになり、つらいこと、を伝えた。
夫は静かに聞いていた。
今思えば、その瞬間、私は『違和感』を感じていた。-それはー
ー夫は私の傷ついた気持ちをわかってくれていない、心から慰めてくれていない。ただ、しずかに座っているのは、「いくらお金が入ったか知りたい」という灰色のオーラをまとった夫だ。
私は霊感など全くない。ただ、今言えるのは、私が肌で感じた「灰色のオーラ」は本当だった。それを感じた瞬間、私は言うつもりだった遺産の金額を伝えないことに決めた。
今自信を持って言えるのは、遺産の金額を言わないで良かった、ということだ。
嘘つき、無責任、恩知らず、情がない、思いやりがない、そして、金への執着。
外面がいいだけ。
私はモラハラされていた?!
円満調停の第一回目は1か月後。
子の面会交流調停を起こしなさいと言ってから、何もアクションを起こさなかった夫。
家裁から通知が届いた夫は慌てたように代理人を付けた。
夫に捨てられ、惨めでみじめで、親兄弟と限られた親友にしか話せないこと。
強力な味方は、I弁護士と、ペアのT弁護士だ。
相談の時からI弁護士は、夫が圧倒的に不利なこと、『大丈夫だから!』と言ってくれていた。
第一回期日で、夫は何を主張してくるのか。
こちらは円満
むこうはNOというだろう、なら、なぜ?離婚?なぜ離婚したいのか?
私のスケジュールと気持ちを聞かれた。
『今、絶対に不倫しています。3年前と同じセリフで私を責め立てました。でも今の不倫は暴けません。ただし、3年前のYを相手取り、とことんやります。離婚せずずっと別居でいようと思いましたが、もう夫の姓を名乗るのも嫌です。一刻も早く、この夫との縁を切り、新しい人生を始めたい。』
調停は様子をみて2回。
そのあと、不成立にして、離婚裁判を起こす。
そして私は夫から4月に手渡された『愛着障害』の本を取り出した。
「3年前の不倫の時も、私の人格を全否定され、私への気持ちが’ わからない’ といいました。今回も、出ていく前半年にわたり、私のやることなすこと、過去の発言をいちいち引き合いに出し、『お前は10年前に〇〇と言った、傷ついた、云々、』責めました。こんな本を渡されて、私が否定できないことを知りながら、「幼少期の悲しい体験のせいでちなつの性格が歪んだのではないか、」と黙らせ、『ちなつの性格が我慢できないから、黙って出ていくしかなかったんだ』と、私の責任で自分が出て行ったと言っています。」
『それねー
立派なモラルハザードだから!』
『よくあることです、調停員もわかっていますよ。』
え?自分がモラハラされ、洗脳されていたなんて!!
I弁護士はまた言った。
『言ったでしょう。旦那は地獄列車に乗っているんだから』
「先生、私みたいに、夫に捨てられたひと、いますか・・・?惨めでみじめで、人生を呪うんです。」
「いでぐちさん、いますよ、そういう奥さん。人は表面で見えないだけで、みんな何かしら背負って生きています。あなただけではありませんよ。」
心の奥から力が湧いてくるような感覚を覚えた。
その打ち合わせの日から、私はだんだんと泣かなくなった。
もう、ツクツクボウシが鳴き始めた夏も終わりのころだった。
こどもの第六感
夫が一方的に出て行って、残された私と娘二人。
夫が言葉尻をとらえて食って掛かっていた時は、それなりに口論があり、娘たちはそのたびに、まずまずい、と、自分たちのやるべきことを、ささっと済ませ、部屋で静かに遊んでいた。
あまり派手な夫婦喧嘩は見せたつもりはない。
今思えば、子供たちの発言には、『何かを感じ取っているかのような・第六感』的なものがあった。それを紹介したい。
夫が私によそよそしくなった3月以降、みいなが、『みいなパパと寝たい~』といって、夫婦で寝ていたベッドでパパと寝たがるようになった。すると、あいこも負けじと『私も!!』そこで、火曜日と金曜日だけ、みいなはパパと一緒に寝ることになった。
今までそんなこと、一言も言わなかったのに。
夫が出て行ったあと、みいなに聞いた。
「パパが様子がおかしいこと、気づいていて、一緒に寝たいなんて言ったの?」
みいなはキョトンとしていた。
もう一つは3年前。
広島で、不倫発覚する前、口を開けば夫が私を責めてせめて、まるで生きている価値がないような、妻としても母としても人間として最悪だ!と言わんばかりに責め立てていたころ、
私は家族での夕食の食卓でもしょんぼりしていた。
そんな中で、当時4歳のあいこが舌っ足らずにパパとママにこういった。
「ねえね、ごはん食べたらさ、みんなでさ、手てつないでさ、お散歩しよ~」
今思い出しても、私は泣けてくる。
無邪気に笑うあいこ、本当はすべてお見通しだったんじゃないかな。
その日の夜、約束通り、あいことみいなと私たち夫婦は、近所を夜散歩した。
そんなことしたことなかったのに。
子供たちの背中を見て、「もうこんな光景を見ることはないんだろうな・・・これが最後かな・・」と思うと涙が止まらなかった。
現在7歳のあいこは、当然そのことは覚えていない。
あいこ、ごめん、あの時は、なんとか夫婦でやり直したけれど、今回はパパ逃げちゃったよ。。。どうにもできなかったよ。
ねえ、みいなとあいこは、大好きなパパとママの間に、何を感じていたの?
あいこの本音
子供にパパとの面会を中止したあと、私は子供の心の変化を見逃さないように、何度も声をかけた。
「パパに会いたいよね、電話してもいいよ。」
「会いたくてさみしくなったら、ママに気を遣わなくていいから、正直な気持ちをママに話してね、会いたいよね、大好きだもんね。おねがい、本当の気持ちを言ってね。」
自分はズタボロで、毎日泣いている。
でも、娘たちは一見平気そうだけれど、小さな心に傷を負った。
そこをフォローしなければ・・・ととても気を遣った。
感情豊かなみいなは、よく気持ちを話してくれた。
パパにも電話していた。
一方、あいこは、みいなが『パパがあいこと話したいって言ってるよ。』と電話を渡そうとしても、決して電話に出なかった。
「勝手に出て行ったんだもん。」
7歳、小学校1年生のあいこはそう理由を言った。
内心、私の気持ちを汲んで、そういっているのかな。とはわかっていた。
ある夜、寝る前、あいこに聞いた。
「あいこ、ママがパパとの約束、中止にしたこと、怒ってない?」
あいこがこくりと頷いた。
胸が締め付けられた。
あまり気持ちを表現しないあいこ。やっぱり、パパに会いたいよね・・・
最大の被害者は子供・・・
これは、私自身、両親の離婚で実感していることだった。
『愛着障害』カウンセリング
夫に「愛着障害」じゃないのか、と言われた4月上旬。
渡された本の著者、岡田先生の関連センターに連絡を取り、Skypeでカウンセリングを予約した。
90分8000円。
一番信頼し、いざという時は自分を守ってくれると思っていた夫から、頻繁に人格を否定され、私は夫に見放されたという不安と恐怖の心境に襲われて、私は自分の今までの態度を改めて夫の気持ちを早く取り戻さなくてはと焦り、そのことだけに頭が一杯一杯になっていた・・・
カウンセリング自体は、幼少期の出来事を思い出すことがつらく、涙があふれたが、その思い出をどうしまっておくか、など、自分なりの気づきがたくさんあった。毎回、気づきがあり、安心して話ができるカウンセラーに、長年しまっていた気持ちを吐き出し、心が軽くなっていった。
時々、よそよそしい夫に、私が頑張っていることをきいてほしくて 報告した。
「私の感情の激しさは、幼少期の体験が押し込められた反動だったみたい・・・」等。
夫は、これもまた、よそよそしく聞いていた。
「そうか、ちなつの今までの行動が説明つくな・・・」
「応援しているよ。」
心が離れていったように思っている夫にかけられたこの言葉だけで、当時の私は、なんか嬉しかった。『見守っててくれる…』
娘たちにはパパとママがいる家庭で育てたかった。それだけ。
パパも良いパパを家では演じていたし、娘たちにはパパが必要、だから、私さえこの性格を直し、夫の心を取り戻せば・・・それだけだった。
その時の夫は、もうすでに、裏切り、逃げ出すことを計画していた。
何も知らない私。自分の弱さを私になすりつけ、悪者に仕立て上げ、「俺はこうするしかなかったんだ、感情的なちなつと話し合いが出来ないから、逃げるしかなかったんだ。」と己の自分勝手な行為を正当化した夫。
神様やご先祖様は、私に迫りくる地獄へのカウントダウンを、どんなふうに見ていたのかな。
私はその後も、月に2回のペースで、カウンセリング続けた・・・。
夫と仲良くしたかった。
愛するみいなとあいこをパパとママがそろった家族で、愛情いっぱい注いで育てたかったから・・・
『4人家族』をどうしても守りたかった。
だって、3年前の不倫を許し、危機を乗り越えてきたんだから・・・私は家族に尽くしてきたんだから・・・
願いはそれだけだった。
今思えば・・・の心の引っ掛かり
いつから夫は私たちを騙し、逃げ出す計画をしていたのか・・・
東京に引っ越すと決めたときからか?
私に2択ー広島に残って単身赴任 or 一緒に東京にいく
その時、私が広島に残る、と言うとでも高をくくっていたのか。
「一緒に東京に行く」と言ったとき、本音は「しまった」と思っていたのか??
ならば、「一緒に東京に戻って、またちなつと仲良くしたい」と言ったのはうそだったのか?
東京に転居したばかりのfacebookには、広島の仲間への感謝の言葉と、最後に、「わがままを聞いてくれた妻に感謝します。」と書いてあった。。。
思い出せば、今年の1月2月くらいからかな・・・夫婦だから、『これが喧嘩になる沸点』や、『これを言うと、まずい』というラインはわかっていた。なのに、まったく今まで喧嘩にならなかったポイントで、夫が言葉尻をとらえて食って掛かったり、そんなつもりでないところから、夫の言葉攻めが始まったりして、戸惑った。
そう、ある日突然さも昔から苦しみ悩んでいたように、夫は私に喧嘩を吹っ掛けてきた。
私がXXと言った。それを夫は「なんでお前はXXなんて言うんだ、そんないいかた云々・・・」家族で出かけたシッピング。店前で30分にわたって私を責める、ある時はバスの中で目ん玉をひん剥いて小声で「なんでちなつはXXっていうんだ、いつ俺がXXXって言ったか、そういうところが嫌だって言っているんだよ!」と・・・・
ある時は、10年前の夫婦の会話を持ち出し、からんできた。
結婚後、1年半の周期で転職を繰り返していた夫。その頃も、辞めたい、辞めたいと悩んでいた。そこで私は、「そんなにつらいならやめていいよ、数か月なら私が養えるよ!大丈夫だから。」と励ましたものだ。
その励ましの言葉を10年後、今、引き合いに出し、『あの時、ちなつは俺をバカにしただろう!』と怒った・・・もう、私は初めて聞いたその不満に、あっけにとられていた。そんなつもりじゃないのに、なんで・・・と当たり前の説明をすると、「ならいいけど!」と怒りを引っ込める・・・
なんでこんなに私を責めるのか?そんなに私の言うことが気に障ったか?
わからないことばかりだった。謝っても責め続けるので返す言葉もなく「なら離婚すればいいじゃない」って思わず言ったこともあった。
いくら喧嘩しても、「離婚」って言葉はこの12年間、絶対に使ってこなかった言葉だ。
夫も決して口にはしなかったが、わたしから そのセリフを待っているかのようだった。今思えば。
夫はその後も、私の一言をとらえ、喧嘩を売り、私の人格を責めつづけた・・・そして、4月のプチ家出。→愛着障害と決めつけ、否定できないことを知っていて、私を黙らせた。己のやましさをすべて私の責任にするために。計画していたんだ。
プチ家出の後、「愛着障害だろう」と私を黙らせた後、私は夫に異常に気を遣うようになった。しょんぼりして、言葉も気を付け、それ以来・・・まるで家の中にいても他人のように・・・気を使いあうよそよそしい関係になっていった・・・
私は自分の過去の出来事のせいで人格がゆがんだ、と信じ、夫にゆがんだ甘えで苦しめていたと夫の言うように反省し、夫に許してほしくて・・・私のほうを向いてほしくて・・・カウンセリングを始めた。
今は確信を持って言える。
夫はこの頃から自分の『不正』が後ろめたく、誰かと私を比較して、私の人格を否定することをしていたのだ。
やっぱり、3年前の不倫の時と同じやり方じゃないか!
なんとなく、夫が変だと引っかかっていたけれど、家族で出かけるし、このころはスキンシップもあったし、認めたくなかったのかもしれない。
どこまでも、手のひらで転がしているつもりだった。
不倫がバレたくない
自己保守な嘘や言い訳
それがこのころの夫の姿だった。
新たな嘘
夫が突然出て行ってから1か月ほどたったある日、夫の会社の人事Nさんから電話があった。子供の健康保険を夫から外し、私のほうへ異動する件だ。
ご主人が、手続きを「保留する」と言ってきました・・・。
なんで?自分だって必死にしていたのに?児童手当、私が受け取れなくなる!
Nさんは、「このような事態では、私は奥様に協力せざるを得ません・・」
そう言ってくれた。涙が出た・・・
「ありがとうございます。」と何度もいった。
夫の同意なしで、保険の異動が出来るよう手続きしてくれるとの事・・・
「これから調停などで、給料明細など提出する際、ご協力いただくかもしれません。
6月に、ボーナスも出ていますよね?」と尋ねるとNさんが言った。
「ええ、3月にも出ていますよ。」
絶句した!!!
3月・・・! 夫が、私の4月上旬のプチ家出で気持ちがなくなった、といったのは
嘘だった!!やっぱり!!! もっと前から、自分で計画していたんだ!!
『おまえのあの時のあの一言で、俺はXXになったんだ』
と、自分の行為を私のせいにするパターン、
3年前の不倫の時と全く同じ!!
まだまだ地獄の底から光が見えそうもなくなった・・・
卑怯な夫に、地獄の底に足を引っ張られていた・・・
3月と6月のボーナス・・・隠し、一人占めしていた・・・
するよね、あいつ、嘘つきだもの。
前にもあった、給料ごまかし、光熱費ごまかし。追及するのもめんどうだから、いちいちチェックしてなかった、信用しようと、思っていた、嘘つきなの、知っていたのに・・・家族を続けたかっただけなんだ、私は・・・その努力、すべて踏みにじってこの夫は私に感謝もせず、むしろ、責めあげ、逃げ出したんだ。
ちなつ、よく見ようよ、これがあんたが結婚した相手だったんだよ。
失敗だったんだよ。
ご先祖様がそういっているのかな。
ダメージが軽いうちに、もっと早く教えてくれなかったのかな、
このダメージから、私は何を学べばいいのかな・・・?辛すぎるよ・・・
この夫からこんな仕打ちを受けるほどの悪いこと、私はしましたか??