『Just Moved』
東京から、逃げるように引っ越してきた私達。それは、引っ越す理由を知られたくなかったから。1年半前に東京へ引っ越した時、温かく迎えてくれた新旧友達、年賀状を今年貰いっぱなしで返事を書けないでいた昔からの友達・・・
20枚程度だが、まったく事情を知らせていない友達へ、思い切って
「引っ越しました」はがきを出した。
一つ一つ、メッセージを添えて…
ある者には、『人を信じられなくなりました』と泣きごとを書いたり。
ある人には『人生何があるかわかりません』と意味深に。
『夫婦別姓の世の中を願います』など。→これは本当。
投函するとき、ドキドキした。
そして、もやもやした。なぜか?至らない妻ではあったかもしれないが、ここまで貶められるほどのことはしていない、私は間違ったことはしていないのに、なぜ惨めに思うのか・・・?名前が変わったことですぐにわかるではないか?なぜ?なぜ・・・?
離婚から3か月、引っ越しから2か月。外でMINIを見れば嫌な気持ちになり、何かと早漏元夫の影が心の中にあり、苦しんでいる。
それはたった3カ月では癒されるはずもない、仕方のないことなのに。
はがきが到着した友人たちは、驚いて電話をくれる人、LINEをくれる人、等。
特に、電話をくれたNさんは、みいなとあいこが2,3、歳だったころからを知る、昔のご近所さんであった。毎年庭の玉ねぎ収穫や、年末は餅づくりのお手伝いに呼んでもらっていた。近所に買ったマンションを売ってまで東京へ転居する私たちを、それはそれは寂しがってくれた。
みいなとあいこの様子を心配しながらも、Nさんはむしろ、この数か月、地獄の底を傷だらけになってさまよって生還した私を、心配していた。
言葉では聞かなくても、声色で、私に「辛かったね」と言っていた。
それを感じた私は、明るく「大丈夫です、カープのそばで幸せで♫」と笑っていたものの、段々閉じていた扉が開いていくのを感じた。
まずい、泣いてしまう。。。
このままだと、何が起こったかすべて喋って受け止めてもらいたくなりそうだ。
あいこにわざと電話をかわってもらった。
東京を出発する前に会った、元同僚のKさんは、はがきをみて涙が出た、とLINEをくれた。同じく離婚歴のあるKとは、レストランでお互い泣きじゃくった。
経験したものでないとわからない思いを・・・
勇気を出して投函した「Just Moved」のはがき。
元気ですよと伝えるはずだったのに、なぜだか私はだんだん後ろ向きになっていった。
「元」義理両親との関係
あまり人に話すことが出来ない、出来なかった、私の身に起こった出来事を面と向かって話した人は数少ない。誰がこんな惨めな私を受け止めてくれるのか、聞いてくれるのか?何かしてほしいわけじゃない、私を昔から知る人にだけ話した。
そのたびに必ず聞かれる質問がある。
『向こうの義理両親は、何も言ってこないの?』
この疑問に答えようと思う。
元不倫早漏夫の義理両親は、結婚当初から私たちの結婚に反対していた。私が年上だから?元夫が童貞だったから?初めてのカノジョにまるで恋人を取られたかのように義理母は強烈に私を拒否した。それでも元夫が私と結婚すると決断したから結婚した。
でも私の実家にも挨拶に来てくれなかった義理両親。
非常に失礼だった。→10年後、4年前の不倫があった時に、再構築を誓った元夫にお願いしたことの一つは、この義理両親の不義理を謝罪し、私の実家に改めて挨拶に行くように、という事であったから、それは果たしてもらった。今となっては無駄だったけれど。
この義理両親、父親は無口でニコニコしているだけ。母親は自営業、これが強烈な人であった。子供ができる前は実家に年に数回顔をだすたびに、私の存在を無視、目を一切見ず、「さ、さ、ちなつさん、これ食べて~」といって一切私と目を合わせなかった。もてなしているふりをして私は冷遇された。話題はいつも義理母が仕切り、私が口をはさめない近所の人の話題や、自分の自慢話ばかり、頑張って話題に口を挟めば、すぐに話題を変えられた。手土産で持参した手作りのお菓子は、まるで見えないもののようにいつまでも居間に放置された。
私自身のことを一切聞かれたことは無い。好きな食べ物、などたった一つのことさえも。興味がなかった=拒否していたから。
私は何一つ、悪いことをしていないのに。
10代の姪っ子に学校の様子を尋ね、色々話を聞いて癒されていると、わざと会話を中断して来る、歪んだ自己愛の強い、強烈な小太り婆。金周りがそこいらの主婦とは違うのは分かった。「愛する人を生んでくれたひと」とどんなに考えても、私の存在を全否定する態度。立ち振る舞いが下品だ、と結論付けた。
さて、元夫は、どう私を守ってくれていたのか????
当時は、「メールで文句を言った」など、ちゃんとしたよ、もうしばらく行かなくていいから、等言っていたので、そうか、ちゃんと言ってくれたんだ、と思っていた。
が、今回、友人に言われた一言。
「ちゃんと、ちなつの目の前で、『その態度を改めろ』って注意してくれたことなかったの?」
ハッとした。
そんなこと、してくれたことなかった。
気の小さい元夫は、自分の親にさえ面と向かって文句を私のために言ってくれたことは無い、いつだって「メールで、」「電話で」文句言っといた、だった。
こんな義理両親だから、今回早漏不倫息子のしでかした事態も、(100%ちなつが僕にモラハラするから耐えられなくなって別居した)と虚偽を伝えている。ちゃんと話し合って出てきた、とでも言っているだろう。糞不倫元夫は。
一切何も言ってこない。言ってくるはずなどないことは、初めからわかっていた。
言ってきても、私に文句を言うだろう。
ただ、調停中には不倫元夫から『義理両親がみいなとあいこに会いたがっている』『じいじ、ばあばに会わせたい』と聞いていた。
私は、12年にわたって私の尊厳を踏みにじって苦しめてきた義理両親、結婚時の不義理、こいつらのクズ息子=元夫にめちゃくちゃにされた人生、を思うと、断固拒否しつづけた。
調停離婚調書には、 『義理両親に決して会わせない』とは明記できなかったが。
さて、この元義理両親、特に元義理母、私を無視しておきながら、みいなが生まれたとたん、態度を180度一変させ、「ちなつさん、ちなつさん」といって、私たちの新居に足しげく通うようになった。一度たりとも遊びに来たことなどなかったのに!!
みいなとあいこにはよくしてもらった、それなりに…しかし、二人が小学生になり、ものがわかるようになると、二人ともばあばの一方的な態度に、嫌気を覚えていた。
「あのね、学校でね、…」と二人が話しても、それについては一切無視。「公文でね、オブジェ貰ったんだ」これも「ふーん」もなく、無視。話題をさっと変え、「そういえば、K里(内孫の姪っ子)なんてね、こないだ学校でねー」と違う話を始める。みいなとあいこの話を一切受け止めないのだ。
これにはさすがにみいなとあいこも、ばあばが普通の大人とは「嫌な意味で」違うことをわかりはじめていた。
自分はただ、孫を侍らせて、町を歩きたいだけ。
みいなとあいこが私を介さず義理母とコミュニケーションがとれるようになると、私はまた出産前と同じように「存在を無視」され始めた。もう不要、といわんばかりに。
そのころには、無口な義理父は若年性アルツハイマー型認知症を発症し、話しかけても会話にならなくなった。高校生の姪っ子と話していても、デブ元義理母にテーブル越しに邪魔をされた。
この結婚が失敗であったことは、結婚前からヒントがあった。
私はそれに気づけないでいた。
醜男の息子を溺愛する心醜い義理母。
公開-早漏不倫「元」夫の置手紙
人生最悪の日から約10カ月。数回目を通した後、弁護士にオリジナルを預けている早漏夫のみいなとあいこへの置手紙。
当初は、涙なくして読めなかったっけ・・・
数か月ぶりに資料としてPDFとなっているものを公開のために読んだ。
「なにこれ?何が言いたいの?」
このセリフは、I弁護士が目を通すたびにいうセリフと同じだった。
改めて冷静になった私の頭では、この文章から読み取れるものは
「愛する娘たちと離れ離れになる悲壮感」は全くなく、
「パパは君たちを愛しているよ。それはほんとだから!じゃーね!」
と終始ハイテンション。
そのテンションは、「これから自由だ、万歳!ワクワク!ということで、君たち、パパは女と誰にもじゃまされず暮らすから、ばいばーい!」
と言っているようなものだ。
「パパとママは何回もお話したんだけれど・・・」→私が持ちかけた話し合い。早漏夫は、「ちなつへの気持ちがわからない」としか言っていない。数か月にわたってひそかに蒸発を企てていた。「一緒に住めない、別居したい」なんて、なんの相談もなかった。
逃げただけ。蒸発しただけ。
よく見れば、あとに書いたであろうあいこあての手紙は、だんだん字が乱雑に。
急いで書いて、「もう、早くいかなきゃ、楽しみで仕方ないぜ♬」と字が語っている。
早漏不倫夫は、己の不倫欲望(=夫・父親の責務を捨て、自由になる)を満たすためにこの子たちを捨て、私を「愛着障害」だと責め、モラハラして出て行った。
子供のいる世の中の人に聞きたい。
『あなたは、どんな心理状態になったら、こんな殴り書きの置手紙をだけで、「愛している」という子供たちに何も語らず去ることが出来るのですか?』
私は今さら、早漏夫の気持ちが知りたいわけじゃない。
私が知りたいのは、
「こんな悪魔のような仕打ちをする人が、世の中には存在するのですか?」
ということだ。魔が差したのか?それとも、元からこんな人だったのか?
もとから家族など愛してはいなかったのか?12年間家族ごっこをしていただけ?
それとも、既婚男 or 女なら、誰でも「魔が差せば」こんな気持ちになることがあるとでも??
いや、世の中、ゲスな人間もいるということ、そんな人間を夫として選んでしまったのは私に見る目がなかったのだろう。
この手紙を、捨てたい。でも、保管しておきたいとも思っている。
保管する理由はなにか?みいなとあいこが成人したとき、改めて読ませるため・・・
果たしてこれが正しいのかどうか、わからない。ひどいことをした父親と分かっていながら憎めない複雑な娘たちの心をさらに傷つけることになるのかもしれない。
その時、「読み返したいか?」と聞いてから見せることにしよう。これから数年間、彼女らなりに、様々なシーンで、複雑な心境を自分で消化しながら心の平穏を保っていくであろう。成長し、その消化できた心には、再び傷ついた事実を思い起こさせるこの証拠は、心のパンドラの箱を開けることになるかもしれない。
憎い手紙。反吐が出る手紙。
妄想だが、奴が死んだら、霊前で読み上げてやりたい。
ま、そんな必要はあるまい。因果応報。
これから戦う方へ
早漏不倫元夫との決着がついた今、参考までにこれまでかかった費用を書き出してみる。今後、同じように絶望の中でも、戦おうとする人たちのために、参考になればいいと思う。勝ち目は誰にもわからない、その割合によっては、私とは全く違う結果になるだろう。弁護士事務所によっては私より低額または高額なところもあるようだ。
以下すべて税抜き
- 3年前の不倫女Yに最初に出した、内容証明、弁護士依頼費用 10万
- 突如蒸発した早漏元夫を相手方とした「夫婦関係調整(円満)」「婚姻費用」の調停弁護士費用 30万+実費2万
- 上記を着手する前の法律相談料 1万
- 不倫女Yを相手取った不法行為に基づく損害賠償請求費用 30万+実費2万
- 4の和解成功報酬 10万
- 2の元夫との調停離婚成立成功報酬 40万(離婚、慰謝料、財産分与、子の面会)
5と6の50万円は、5の不倫女Yから勝ち取った「解決金」から清算したが、
裁判中は60万以上もつぎ込む必要があり、いずれ勝ち目はあるとわかってはいても、出ていくお金は苦しかった。同時に、お盆の家賃の安い部屋への引っ越しのための新居費用、広島への引っ越し費用と新居費用、移動費(約90万)…「なんでこんなお金を私が負担しなければならないのか?早漏夫が、あの気の弱い弱虫早漏不倫夫がきちんと話しあいの上、出ていけばこのようにはならなかったのに…」と思うと、よけい悔しかったのは言うまでもない。
減っていく預金への不安。
でも、損をしても、納得いくまでやろう、と決めていた。
これでもし、調停成立せず、訴訟にしていたら、弁護士費用は+30万と言われていた。
慰謝料でマイナスにはならないが、そのお金で傷ついた心や結婚生活の無駄な12年間が清算されるわけではない、でも、落とし前はつけさせた、と思っている。
弁護士が何度も言っていた。『いでぐちさんが納得いく形が一番です。』
結果として、私は妥協も少なく、金額と離婚条件については、納得して離婚した。
「離婚」は避けたかった。「家族」という形を守りたかった、その亡霊はまだ私の心にはいるけれど。
急転直下②
離婚条件を出した12月から2回目の調停。
急に離婚条件を出して、2回目で「不調にして訴訟にします!」と言い切った私に
調停員たちは、説得にかかった。「訴訟にしたところで、長くて辛いことを沢山言わなければならない、さらにお金がかかり、傷つくうえ、希望の慰謝料が取れるという保証はないので、なんとか調停で話し合ったらどうか」
突っぱねた私は一度待合室に戻り、30分以上待たされただろうか、こんどは調停員は早漏夫側の説得を試みているようだった。この出たり入ったりの話し合いが2回。
慰謝料の金額はどのくらいを希望しているのか?どのくらいの範囲なら、受け入れられるのか、等、具体的な落としどころ金額まで。それを相手方に伝え、説得をしていた。
私は心に決めていた金額があった。不倫女Yと合わせて、この早漏夫との慰謝料総額を幾ら以上取る、と決めていたのだ。不倫女から取ったお金を差し引いた差額を提示した。これが出せないなら、訴訟です、と。
もう裁判所の閉所時間5時に近づいていた。
最後に調停室へ呼ばれた時、調停員は言った。
「ちなつさんの希望慰謝料額一杯を支払うそうです。そして、養育費、子供の面会交流も、交通費は自分持ち、泊りはなく、2日連続でならよい、という条件も。高校、大学、成人時にお祝い金としてそれぞれ10万ずつその都度払う事。」
横で私のT弁護士のほうが驚いていた。
訴訟ではない、だから、「勝った」という表現は不適切だが…
私の要求が全面的に通った。
理由は一つ、訴訟にしたところで、断然不利なのは早漏不倫夫であり、さらなるお金がかかるくらいなら、慰謝料を払って別れ、早く再婚をしたいのだろう。
出て行ったとき、半年にわたって私を精神的に問題があるとストーリーを作り上げ、私の責任として、「カウンセリング、頑張ってね、別れた後でも、心から応援しています」と、反吐がでるような下衆なセリフを言って「最後まで優しい夫」を演じ続けていた早漏不倫夫。私はこいつの嘘のストーリーを法律の場で公表し、戦った。
そいつのやってきた一連の極悪非道の悪事を、慰謝料という名で落とし前をつけさせた。
分割払いだが。
私は、申立人待合室で泣いた。
家賃14万の部屋に子供二人とともに残され、急に奈落の底に突き落とされたショック。裏切り、新たな嘘、苦しくて苦しくて、月一回の調停が待ち遠しかった夏、なかなか進まない、広島に帰りたいけど、調停をしている間は帰れない、と苦しんだ秋、なぜどうして!?と毎日悶々とした祈りの日々、年明けには帰りたい、とだけ願った年末…周囲の人に悟られないように人目を避けるようにひっそりと暮らした9カ月。出ていくばかりの弁護士費用、2度の引っ越し、新居費用、転職活動・・・
T弁護士は、『今夜はおいしいお酒が飲める』と喜んでいた。弁護士もびっくりの展開だったからだ。相手方の弁護士にも説得されたんだろう。勝ち目はないから、別れたいなら払いなさい、と。
「いでぐちさんの、ぶれない態度が、この勝利の大きな理由ですよ。」
たしかにそうだ。1万円でも値切ろうものなら、訴訟にするつもりだったから。
5時をすでに回っていた。裁判官が、調停離婚調書を読み上げをし、(双方立ち合いだが、私はデカ顔の早漏夫の姿など見たくないため、弁護士に代理で出席していただいた。)私はそれをもって、役所へ一人で離婚届を出せば終わりだ。
その日の夜、母に報告した。弟にも。
引越しまであと10日。時間がない。さらに会社を休んで、本籍地のある関東のくそ田舎市役所へ向かった。開庁時間に合わせるため、朝6時台の電車に乗って…
無事に離婚届を提出した。
離婚届を手にしたとき、ふと、12年前の結婚した時のことを思い出した。
人前式で、茶色の色遣いの婚姻届にその場でサインしてその日のうちに提出したな、と。
私の人生は、ここからこうなることまで決まっていたんだろうか・・・と。
結婚生活は終わりがあまりにも惨めで辛くて、『なぜここまで私を貶めるのか?』と涙だったが、果たして全体を通して、楽しかった時もあったじゃないか、と…みいなとあいこが生まれたときも・・・
すがすがしい気持ちと共に、そんな複雑な気持ちが溢れた。
そして、私が守りたかった家族。結婚生活は、終わった。
私は自由になった。お金をもらったからといって、傷ついた記憶がなくなるわけじゃない。将来の心配はいくらでもある。人を信用するのが怖くなった。世間体、後ろめたさ、惨めさ、二人の子を抱えた不安、等、負の遺産は沢山ある。
みいなとあいこには、膝を突き合わせて報告した。
二人とも、安心した表情を見せて、わたしに甘えるように膝にほほを摺り寄せてきた。
「これから、3人家族、宜しくね。」
急転直下①
引越しを10日後に控えた平日、最後の有休を使って、調停のため家裁へ向かった。
なんどこの道を歩きながら、「これが最後だ」と考えたか。初めの数回は、子の面会交流ルールを決めるために何度も早漏不倫夫の『メルヘン子供の面会交流』案を聞かされ、それを拒否し、また別案が出て・・と、1か月に1度しかない調停をこんな話をしたくない、早く離婚の条件を話したい、と思ったものだ。
不倫女Yとの裁判を見届けながら、じっと時期を待った半年。
今日こそは円満調停を不成立にして、訴訟にする第一歩なのだ。「これが最後よ、私たちは広島へ帰る。」裁判になれば、すべてを弁護士に任せてよい。
ようやく今回の調停では、調停期日前にすでに相手方に出していた離婚条件の話ができる。条件(意見書)には、最後だから、と、私の心情を綴るようI弁護士に言われた。
(申立人本人の心情)
申立人は,相手方の上記のような一切の責任を放棄した極めて身勝手な一連の行為及びその後の子の面会要求における自己中心的な主張により,金銭的・精神的苦痛を受け続けている。
特に,未成年者らは家族ぐるみで交流のあった学校の友人に対して,「パパは遠くに出張へ行っている」と嘘をつかざるを得ない状況になっており,相手方が出て行ってから,残された一家3人は,事情を知られたくないがために人目を避けるように隠れて暮らし,この数か月間は,まさに地獄であった。
平成2X年X月に,申立人は相手方の「一緒に東京で仲良く暮らしたい」という言葉を信じ,この時点で相手方が認めていた不貞行為も不問にし,夫婦で購入した広島の自宅も,申立人のキャリアや人間関係もすべて捨てて上京したのにもかかわらず,その後たった8か月で,相手方は何の話し合いもなく一方的に家族を捨てたのである。
12年間の結婚生活の中で相手方の身勝手な行動(キャリア志向)のために自らの仕事も生活もセーブして尽くしてきた申立人の絶望は相当なものである。その為,申立人は相応の覚悟をもって今後の離婚裁判に臨むつもりである。
調停員に意の一番に伝えた。
「不調にします。相手方の回答も、慰謝料など存在しない、や、解決金なら100万程度払っても良い、などと、不誠実。夫が出て行ったのは今不倫しているからです。それを隠すために私を悪者にしたてあげました。家族を奈落の底に突き落としておきながら、謝罪もなく、慰謝料を払う義務がないと不誠実です。もうこれ以上話し合うのは無駄です。私は10日後に転居し、これ以上調停に出廷することも出来ません。訴訟とします。」
調停員は、なんとか調停でまとまらないのか、訴訟にすると、お金はかかるし、長引くし、嫌なことを沢山言わなければならない、もっと離婚条件については時間をかけて話し合ったらどうなのか?、と説得を始めた。
-いや、私には時間がありません、この数か月、この話をしたくても、子供のことが優先され、話し合うことが出来なかった。それでも、12月に条件をだして、相手方の反応をみたが、2度も慰謝料を払う必要はない、などと不誠実。時間の無駄です。
「解決金」という名目が嫌だとおっしゃるが、この一言が合意できないだけでも、訴訟とするのか?金額が合わないだけで訴訟にするのか?妥協はできないのか?
一瞬迷った。解決金ではなく、「慰謝料」という名目でないと納得いかない。本当にそれだけの理由で、これからさらに長い道のりになる訴訟にするのが得策なのか?
金額が1円でも合わないだけでも、妥協しないと突っぱねて、訴訟にするのがいいのか?
「訴訟にしたからと言って、いでぐちさんが望む金額が得られるとは限りませんよ。」
私は、弁護士にも言われていた。待合室で、何度も聞いていたのだ。「うーん、取れても200万弱…かな」「え?3年前の不倫の慰謝料と合わせてですか?」今回の不倫(にちがいない)に端を発した突然の別居、に対しては、不倫の証拠がない。敢えて言うなら、悪意の遺棄だが、金額は望めない。
「そんなんものですか…」
すでに70万近くを弁護士費用につぎ込んていたのに…訴訟にしたとしても、たった200万が取れないかもしれない。だから、私は調停員が訴訟にしないよう説得する言葉が響いたのだ。
私は怯まず言った。
「訴訟にします。」
困った表情の調停員はT弁護士を見た。T弁護士は、
「この数か月、いでぐちさんの苦しみを見てきました。別件の不貞行為訴訟でも彼女の日記を証拠として拝見し、この数年間、この結婚生活で苦しんでこられたことがよくわかっていますから、彼女の納得のいくようにサポートしたい。」
訴訟にすることで追加で弁護士費用が掛かる。+30万。
お金?出ていくばかりだ。もったいない。でも、お金じゃない。
てめえのやった落とし前は、
てめえでつけてもらおうじゃないか。
これだけだった。私と、みいなと、あいこのために。
願いは叶う
2017年6月、誰もが信頼する「配偶者」に奈落の底へ突き落とされた。
「ちなつは『愛着障害』だとおもう。もうおれはちなつの心の「安全基地」にはなれない・・・・おれは気持ちがOFFになってしまった。…」などとモラハラの種まきを半年にわたって行い、私を洗脳し、私は自分を責め・・・・すべては私のせいだと…
あれから8か月。月一の早漏夫との調停。一方的な子への面会要求。
一方私は水面下で、3年前の不倫女Yを相手取って不貞裁判を起こし、エグい思いをしながら、先日和解が成立した。要求額の半分以下だったが、それも想定内。一括支払いだから良しとした。
この事実は、敢えて早漏夫との調停では明かさなかった。早漏夫はこの裁判を知りながら、自分の弁護士に己の身の程知らずの3年前の不倫を伝えていない。
前回の調停で、何も決まっていなかったが「広島に転居するので、転居後の条件で今後の話を進めてほしい」と啖呵を切り、調停員も早漏夫側も慌てさせた。
在職中の社長にも、3月末で転居するつもりだ、と告げていた。ずっと理解を示してくれ、弁護士との打ち合わせや調停等、自由に半休を取らせてくれた社長には正直でいたかったから。
仕事も何も決まっていなかったのに。
あれから2週間後、願いは叶った。
内定が出た。
ついでにアパートも決めてきた。
空前の引越人手不足、引越難民になりそうであったが、希望通りの予定日で引っ越し業者も決まった。
引越し日が決まったら、長野の友達夫婦に連絡を取り、みいなとあいこを連れて遊びに行くとアポを取った。みいなとあいこは、父方のじいじばあば、ともう会えないとわかっていて、この長野の夫婦を「長野のじいじとばあば」と呼んでいた。
私の話を受け止めてくれた人々に報告をした。
相変わらずSkypeの英会話講師で予約をいただき、稼いだ。
新生活に向けて準備を進めていくと同時に、次回調停準備書面にて、早漏夫に「円満調停は不調にする。そして、離婚裁判にする。」「面会交流調停を取り下げてくれ、この続きは裁判で行う。」と告げた。ここで初めて、3年前のYとの不貞行為につき、一部弁済金を受けたことを告げた。ぶちまけた。そして宣言した。
「相当な覚悟をもって裁判に臨む」と。
2017年7月に帰ることを決めてから8か月。調停を行うために歯を食いしばってここに残った。毎日仕事に行った。知り合いから逃れるように人目を避けて参観日も行かず耐え忍んだ日々、「パパは遠くへ出張へ行っている」と嘘をつかざるを得なかった子供たち。Skypeの講師で毎日4レッスンこなし、光熱費の節約、そんな日々の中で、3人で楽しく過ごした週末やイベントの数々。
調停を不調にし、ようやくスタートラインに立てる。
願いは叶う。
私はみいなとあいこを連れて、元居た場所へ帰る。
安心して暮らす。ここにいる理由は何一つない。
次の願いは慰謝料と、ハワイ旅行とマンションを手に入れること。猫を飼う事。