3年前の不倫ー再構築
再構築・・・
不倫発覚前に、一度訪ねたカウンセリングルーム。
初めて行ったときは、離れて行った夫の気持ちを取り戻したくて、自分を変えれば夫が私を見てくれるかもしれない・・・と思って、藁をもすがる思いで一人で行ったっけ…。
その時先生は、『旦那さんを誘って一緒に行こうと言ってみてください。』と私に言った。
その直後に不倫が発覚するなんてその時は思いもしなかった。
だって、夫が私を責めたて、私の性格がすべて悪く、母としても妻としても人間としても失格だ!と追い詰めていたから。
そのカウンセリングルームに、夫と次に一緒に出掛けた時は、不倫が発覚し、夫が再構築を誓った時だった。二人で通うことにした。
場所は平和公園を川向うに臨む、川沿いのビルの6F。
大学の心理学の先生も兼任するカウンセラーとの90分のセッション。
カウンセラーは毎回、『〇〇の時はどのようにあなたはだんなさんに伝えますか?』や、過去のエピソードを上手に聞き出して、その時のお互いの言ったことと、その真意を丁寧に思い出し、「それは〇〇のつもりで言ったけど、相手にはXXと伝わっていた。」といった、『ボタンの掛け違い』を探していく作業だった。
私も夫も、日ごろきちんと気持ちを伝えられていないことを認識し、本当は思いあっていたことを確認し、言葉で伝えることの大切さ、日ごろの感謝、伝え方の工夫、など、気づくことがたくさんあった。
90分15000円。
毎月きちんと通った。その前後にランチデートをし、毎月欠かさず・・・
二人とも、カウンセリングを大切に思っていた。
毎月行くこと、その前のランチ&ストレッチマッサージに通うことが楽しみになっていた。カウンセリングが終わると、ますます仲が良くなった気がした。
カウンセリングに通いながら、私たちは保育園を通じたパパ友ママ友仲間ができ、共通の趣味やアクティビティを企画して絆を深めた。本当に楽しく、時には毎週末顔を合わせて遊びに行くような時もあった。
- キャンプ
- 毎月の持ち回りホームパーティー
- 泊りがけのバスツアー
- スキー
- ハイキング
- リレーマラソン
- 野球観戦
- 梨狩り
- 海水浴
- そうめん流し
- 貸会場での忘年会
- BBQ
- 花見
楽しくて楽しくて…子供たちは同級生なのでもちろんのこと、大人同士が仲が良かった。同じような価値観を持ち、酒好きの夫にぴったりの酒豪たちがそろっていた。最高の仲間だった。
そんな最高の仲間に囲まれ、私たち夫婦も毎週楽しく、同時に人知れずカウンセリングに通った。
東京へ転居するときまで、約2年間通った。
そして、東京へ行っても、続けられるよう、関連のカウンセリングを紹介してもらった。
東京へ転居して2か月ほどした12月、夫にカウンセリングに行ってみないか、と誘った。
「もういいよ。」
私は別の時期に2回ほど誘ったが、夫は「ええ?おれは必要ないと思う。」
だった。
今思えば、「僕たちはもう絆がしっかりしているから必要ないよ。」ではなく、「ちなつとはもうどうでもいいから、必要がない。」という雰囲気だったな。
「?」と思ったのにな、
もう人生最悪の日のカウントダウンは、夫がそのスイッチをだいぶ前から押していたんだ。
夫が言えない真実
何も相談もないまま、突如出て行った夫。
出ていく一週間前、様子が変で、思い切って話し合ったときには、
「ちなつへの気持ちが、4月のちなつのプチ家出以来、OFFになった」と言っていた夫。
その時本当のことが言えなくてごめんさない、と、私宛のメールに書いてあった。
これは真っ赤な嘘だ。
『ちなつがあの時XXって言ったから、おれはそれ以来XXになったんだ!』という思考回路は、前回の不倫同様、自らの疚しさを隠すための、私を責める「モラハラ夫」の常套手段だった。
現に、3月のボーナスを隠していた。
ネットで調べても、普通は、「好きな人がいる、別居してほしい」や、「別に好きな人が出来たから、離婚してほしい」と行ってから出ていく。
それをせず、「感情的になったちなつと話すことが出来ないから、出ていくしかなかった。こうするしかなかったんだ」と言い訳する夫。
「本当のことを言うと、ちなつが感情的になって怒る。」
では、本当の事とは・・・?
言わずもがな、『不倫しているから』
ネットで検索すると、いくらでも出てくる。
「突然別居」と調べると、
-
夫(旦那)から別居を切り出された方。男性からそのような事を切り出すって事は、 大抵の場合女性問題が絡んでいると思ってください。
-
突然、別居した夫。
居場所すら教えないってこと、おかしいと踏んでください。どんなに夫が上手い事言っても(音信不通が多く、ほんとの本当に事務的なことのみメール、ラインがくるだけが多いですが)、妻に知られたくない事実が隠されているのは明らかです。
だから知られてないだろうと高をくくっている場所から、メールやラインなどで「早く離婚しろ」だとかなどと意思表示をしてくる輩ばかりです。横で女も旗振っているわけですから、いい気なもんです。
世の中、自分たちの思う通りに生きていけると勘違いもいいとこ。 -
『前から思っていたけど、もうお前とは一緒に居られない…』
夫からの突然の離婚宣言で、頭の中がパニックになってしまって、何も考えられない状態になってしまっている。こういったことは良くある話のようです。
ある調査会社で調べたところ、何と突然離婚を言い出した旦那さんの裏には、
8割以上の男性に浮気相手の存在があったそうです。 -
不倫が原因の別居の特徴
『もうこの家を出て行く❕』といって、ろくな話し合いもせず出て行った場合、
不倫相手と一緒になるための場合が多いです。中でも、相手側が実は不倫相手にのめりこんでしまい、
なんとか貴方と離婚をしようとしと考えている人は、とにかく離婚の理由を相手のせいにしたり、無理やり夫婦関係を悪化させて離婚に持ち込もうと考えている人もいます。
この様な強引な方法で離婚を行おうとしている人の大半は、
不倫の事実が発覚すれば離婚請求が認められない事を知っていますし、
慰謝料請求をされると相当高額の慰謝料を請求される可能性を恐れています。 - 急な別居には注意 もしも急な別居を言い渡され、突然を家を出て行ったら……突然のことに、多くの人が唖然とするでしょう。また、自分のどこが悪かったのか考え、相手に謝ろうと思うかもしれません。所が、こうして何の原因もなく別居するパターンでは、実はその裏に別の異性が存在することも多いのです。
どれもこれも、夫に見事にあてはまる。
★出て行って、数週間、居場所も教えなかった夫。
一方的にLINEで『離婚届は用意出来次第送るから。ちなつも8月は引っ越しで忙しいと思うから、話し合いはゆっくりでいいよ。』とやさしさ?を振りかざしてあほを抜かしている夫。
★とにかく別居、離婚の理由を私の人格のせい(感情的になったちなつが怖くて話し合いができなかった)と周囲にも触れ回る。
★急に出て行かれた私は、夫のモラハラに洗脳されたまま、しばらくは、『私のせいで、子供たちのパパを奪ってしまった。ごめんなさい、』
『俺たちに必要だったのはカップルカウンセリングじゃなくて、ちなつの愛着障害のカウンセリングだったね・・・俺は専門家じゃなかった。早く気づいてあげればよかった・・・』などの夫のから言葉に余計自分を責め、LINEで謝罪していた・・・
私を、幼少期のつらい体験に基づく『愛着障害』だから性格が歪んでいる。とレッテルを張り、自分のやましさを隠すために私の人格否定(モラハラ)をしていた夫。
私が他に確信を持った理由は2つある、
①ワイングラス
頂きもののバカラのワイングラス。一度たりとも家でワインを飲んだこともないビール党の夫が、出ていく2日前に、「あのワイングラスはどこに行った?」と聞いたのだ。もらって一度たりとも、使おうなんて言ったこともないのに!
『誰か一緒にワインを飲む人がいる』
②返送荷物が入っていたURBAN RESEARCH の紙袋
夫が間違えて持ち出した私の靴。
ある日、宅急便で返送されてきた。このときは言っていたのは、あるアパレルブランドの紙袋だった。初めて見たそのブランドを調べると、夫の趣味では全くない。夫と出かけていても、その店に一度たりとも入ったことは無い。不倫女が見えない妻の私にアピールするため、『この袋使って♡』と言ったのかどうかわからないが、夫宅に持ち込んだに違いない。
みいな、あいこ、もう少しわかるようになったら、ママとパパについて語ろう。
パパの悪口ではない、パパの真実を。
心の変化‐葛藤期
岡野あつこさんによると・・・
第3段階 葛藤期
パートナーの心はもう自分を見ていないという現実を受け入れようとしたり、受け入れまいとしたり、といった葛藤を繰り返す。また修復の可能性に賭ける。パートナーとの歴史を振り返りあの時はよかった、などと考えたりもするが、少しずつ今の状況に慣れてあきらめの気持ちも湧いてくる。
夫のアパートへ夜行ってみて、インターホンを鳴らした瞬間に明かりが消えた時から、
私は少しずつ現実を受け入れようとしていた。
でも、毎日、どこかで、「あいつは何をしているのか」「女とセックスしているんだろうな」と考えることもあった。
「早漏のくせに」
騙され、恨めしく、憎かった。
仕方がない、出会ってからを含めると、17年も一緒にいたのだ。
引越しをし、狭い部屋での娘たちとのにぎやかな3人暮らし。贅沢はできないけれど、手料理を一生懸命食べるいとおしい娘たち・・・4つそろった食器も、椅子も、ランチョンマットも、3つで使うことも慣れてきた。娘たちは、パパがいない生活を、とっくに受け入れていた。
週末娘たちと出かければ、パパ連れの子供たちを見る。
1か月前は、胸が締め付けられ、『ついこないだまでは、みいなもあいこも、こうしてパパと出かけていたのに・・・なぜ?!』と、現実を受け入れられなかった。
今は、冷静に、そのパパたちの子供との接し方を観察できるようになった。
どのパパも、とても子供たちに愛情をもって接している。あたりまえだけど・・・
図書館で、子供に本を読んであげるパパ、一緒に本を探しているパパ、とことん付き合っている。
プールでは、ずっと子供たちと一緒に、泳ぎの練習をしたり、浮輪で遊んだりしている。
思い出してみれば、夫は、このパパたちのように、娘たちと出かけることはあっても、とことん付き合うことをしていなかった。
図書館へいけば、自分は常にスマホをいじる。
プールなど、私が誘わなければ行くとは言わない。自分の買い物に突き合わせるほうが多かった。
客観的に夫の接し方を思い出すと、巷のパパたちと比べて、真剣に子供たちと向き合っていなかった事に気づいた。
常に、自分のことばかりだった。
外面が良く、イクメンであることを自慢していたから、周囲は気づかなかっただけ。
私も含めて。
私に悪いところがあるならば・・・
夫選びに失敗したことだ。
私からすべてを奪った夫
広島に来るときに、リモート勤務をさせてくれた外資系会社で、広島に事務所をかまえ、勤め始めて4年。世界を相手に(笑)仕事をしているという自負を満たす仕事は、それなりにストレスフルであったようだ。出張は多く、月1回は1週間~10日、東京や中国。広島へ転居した5年前は子供も1,2歳だったから、出張中のワンオペの育児はそれは大変だった。
出張時に不倫していたのも事実。
思い越せばおととしの7月。
夫は突然、転職したいと言い出した。
理由は、外資の仕事がきつかったこと、それと、『出張が多く、ちなつを心配させたくないから。もう出張の少ない仕事にすれば、ちなつも信用してくれるかと思って』
私に不倫の嫌な思いを思い出させないために、その当時の会社から転職する。
夫がそのつもりなら、腹を決めたなら、いいよと言った。
転職ばかり繰りかえす夫。7回目の転職だった。
夫は会社を辞め、広島地場の自動車関係の会社に就職した。
それはそれは期待されて、給料こそ下がるものの、3年我慢すれば年収が戻る、と期待され入社。車通勤を楽しみたいという夫のわがままを聞き、MINIを新車で購入。マンションのローンと、車のローンを背負うことになった・・・外車を購入することについて私は気が乗らなかったが、「夫が楽しく通勤できるなら」と、承諾した。
家族ぐるみの付き合いのある家族とのホームパーティーでは、「おれは広島に骨をうずめるんだ、皆、よろしく!」と豪語して。
地元出身の仲間たちは、応援してくれた。
しかし1年後の去年の今頃、夫はこの会社を退職し、『東京へ帰ろうと思う。』と言い出した。
東京の外資系で働きたい。と。
私には二者択一を与えらえた。
1.このまま広島にのこり、夫だけ単身で東京へ行く。
2.家族みんなで東京へ引っ越す。
せっかく手に入れたマンション、手放すなんて出来ない・・・仕事も充実している・・・でも、また夫と離れたら、このまま離れてしまうかもしれない。しかも、娘たちはパパが必要な年齢だ・・・
悩んだが、一緒に東京へ行くと言った。家族は一緒のほうがいいと思ったから。
条件として、私たちを結婚前から知る、長野のK夫婦を訪ね、自分の決意を報告してきてほしい、と言った。
今手にあるものをすべて捨てて夫についていくなら、それなりの決意を、そのK夫婦のまえで宣言し、誓ってほしいと思ったからだ。
夫は約束通り、9月のある連休に長野を訪ねた。
決意をしても、やっと手に入れたマンションを手放すことの悲しさ、仕事を辞める悔しさ、友達と別れることになる娘たちの悲しみはある。
ある日、夫に言った。
『仲良しの家族と離れ離れになるのは、嫌だよ・・・ずっと楽しいことばかりしてきたのに・・・』
夫は冷たく言い放った。
『いつまでも続く関係じゃないんだ。子供を通じた友人関係なんて、いつか離れるんだ。』
最高潮を迎えていた家族ぐるみの仲間たち、こんなところで離れ離れになるなんて・・・冷たいことをいうなあ、と思った。
もう一つ。
私は8月には、翌年1月から勤務できるホテルの仕事の内定が出たのだ。Skypeだけの面接で、一発で決まったことに、私がほめてほしくて誇らしげに夫に報告すると、
「あんまり嬉しそうじゃなかったのだ。」
「向こうに引っ越してから、ゆっくり探せばいいのに・・・」
保育園も入れるかわからないのに、内定取らずに保育園探しなんて不安で仕方がない。
それで内定を勝ち取った私はうれしかったのに、夫は、今思えば、
「嬉しそうじゃなかった」
後の祭りだが、①私が東京に付いてくと言ったこと。は想定外だったのだ。
一人で東京へ行き、好き放題して、不倫し、『ちなつが東京へ着いてきてくれなかったから俺の気持ちが離れたんだ。』とでも言って私を責めて、いずれにせよ、私と離婚するつもりだったのだ。
何も知らず、家族の幸せだけを考えていた私は、結果として、
①マンション
②車
③仕事
④友達関係
このすべてを夫に奪われ、味方の誰もいないところで、裏切られ、捨てられたのだ。
もしあの時広島にいれば・・・マンションは手放したかもしれないが、少なくとも、大切な友人関係、やりがいのあった仕事は手に残っていた・・・子供たちも、転校せずに良かったのに。
夫はそれを家族に感謝もせず、無責任に出て行った。
私は何一つ、悪いことはしていない。娘たちもだ。その私からすべてを奪い、東京へ連れていき、どうしようもない状況で裏切って捨てる、初めから、そのつもりだったのだ。
すべてを失った私。
遠く離れた東京で。
それが許せないのだ!!
絶対に身ぐるみはがすまで戦う!
娘たちの将来のために、取れるだけのお金を取って、最高の形で離婚しよう!
パパとママがそろった家庭で子供たちを育てたいという私の願い。
12年間尽くしてきた努力、情、すべてを踏みにじった。
こんな夫は いらない。
父親の死・灰色のオーラ
今こうして、まるで抜け殻のように何とも言えない喪失感を引きずっている。
私はそんなに夫を愛していたのか?自問自答する。
少なくとも、私を守ってくれる存在、夫として、父親として、の信頼はあった。
あの日の朝までは。
何度も私を騙した不倫夫はいらない。
出て行ってもらって、良かった。
と少しずつ感じている。
でも人間として信頼していなかった。
もちろん、3年前の不倫があったからだ。それは、どの不倫夫を持つ妻ならば同じであろう。
信頼していなかったその例を語りたい。
私の両親は私が11歳の時、母が家を飛び出す形で離婚となった。それ以来、父とは一度しか会っていない。
35年も前のことだ。当時は養育費や父との面会交流など、重要視されていなかった時代。父に会えないことは何とも思っていなかった。誕生日にも、一切お祝いもしなかった父。むしろ、死んだ、と思っていたくらいだ。父がほどなく再婚し、異母妹がいることは風の便りに知っていた。
そんな母が常日頃言っていたことは、「あんたのお父さんが死んだら、かならず連絡がくる。遺産相続でしっかり貰いなさい!」
どうでもいいと思っていた。
母も70歳を迎えた2015年、母の友人から電話があった。
「あんたのお父さん、死んだみたいよ。」
でも、だれも私と弟に連絡はくれない。なぜ?私たちの合意がなければ、相続ができないはず・・・
死を知って、一年以内であれば、相続の権利はある。不倫問題の際、別居を諫めたM弁護士に依頼した。
後妻はすでに死去。相続人は私と弟と、異母妹の3人。
私たちに連絡がいかなかった理由。それは、遺言状があったのだ。
Y子(異母妹)いままでありがとう・・・云々。幸せだった。中略ーささやかながら全財産をY子に贈る。
ちなつ、K司へ。
私は再婚して幸せだった。Y子は後妻が逝った後、私をよく助けてくれた。君たちも色々あるだろうが、遺留分は請求せず、遠くからY子を見守ってほしい。
弟と私。
すでに40代、
いい年して、私は泣いた。
死んだものだと思っていた父に、最後まで冷たくされた。
それなりに母子家庭で苦労してきた私たち。子供に罪はない。
『父親らしいことしてやれず悪かった、』など、謝罪の言葉も、私たちを気遣う言葉も、会いたい、という愛情も、一切なかった。
とにかく、「遺留分は請求してくれるな」というメッセージだけだった。
いくら私の母が憎かったとしても、子供には罪はない。
どうでもいいと思っていた父。
でも、自分の中に流れる父の血を感じるたび、幼いころ、父がたくさんの漫画を描いて私を驚かせたことを思い出す。
絵心のあった父。
私もその才能を受け継ぎ、絵が得意だ。
35年間、どうでもいいと言いながら、父が誇らしいとどこかで思っていたのだ。
その気持ちが、一瞬で踏みにじられた。
もう一度言う、子供に罪はない。己の子なら、最後まで愛情があるものではないのか。
子を持つ身の今、わが子への思いを知る今だからこそ、父の気持ちが理解できなかった。
傷ついた弟と私は、遺言状に関係なく、法的権利の遺留分を請求した。幸い、父にはサラリーマンより多めのたくわえがあり、六分の一であっても、私と弟に十分な遺産が入った。
M弁護士は言った。お二人には、つらい遺言状でしたね・・・。
その受け取った遺産。弟は奥さんと相談し、教育資金にすると決めたようだ。
私も、気乗りしなかったが、夫に話そうと思った。
その前に、遺言状がつらく、傷ついたこと、その気持ちをわかってほしくて、夫と膝を突き合わせて座った。
私は泣きながら、その遺言状でさらに傷ついたこと、父を心のどこかで慕っていたことを裏切られた気持ちになり、つらいこと、を伝えた。
夫は静かに聞いていた。
今思えば、その瞬間、私は『違和感』を感じていた。-それはー
ー夫は私の傷ついた気持ちをわかってくれていない、心から慰めてくれていない。ただ、しずかに座っているのは、「いくらお金が入ったか知りたい」という灰色のオーラをまとった夫だ。
私は霊感など全くない。ただ、今言えるのは、私が肌で感じた「灰色のオーラ」は本当だった。それを感じた瞬間、私は言うつもりだった遺産の金額を伝えないことに決めた。
今自信を持って言えるのは、遺産の金額を言わないで良かった、ということだ。
嘘つき、無責任、恩知らず、情がない、思いやりがない、そして、金への執着。
外面がいいだけ。
私はモラハラされていた?!
円満調停の第一回目は1か月後。
子の面会交流調停を起こしなさいと言ってから、何もアクションを起こさなかった夫。
家裁から通知が届いた夫は慌てたように代理人を付けた。
夫に捨てられ、惨めでみじめで、親兄弟と限られた親友にしか話せないこと。
強力な味方は、I弁護士と、ペアのT弁護士だ。
相談の時からI弁護士は、夫が圧倒的に不利なこと、『大丈夫だから!』と言ってくれていた。
第一回期日で、夫は何を主張してくるのか。
こちらは円満
むこうはNOというだろう、なら、なぜ?離婚?なぜ離婚したいのか?
私のスケジュールと気持ちを聞かれた。
『今、絶対に不倫しています。3年前と同じセリフで私を責め立てました。でも今の不倫は暴けません。ただし、3年前のYを相手取り、とことんやります。離婚せずずっと別居でいようと思いましたが、もう夫の姓を名乗るのも嫌です。一刻も早く、この夫との縁を切り、新しい人生を始めたい。』
調停は様子をみて2回。
そのあと、不成立にして、離婚裁判を起こす。
そして私は夫から4月に手渡された『愛着障害』の本を取り出した。
「3年前の不倫の時も、私の人格を全否定され、私への気持ちが’ わからない’ といいました。今回も、出ていく前半年にわたり、私のやることなすこと、過去の発言をいちいち引き合いに出し、『お前は10年前に〇〇と言った、傷ついた、云々、』責めました。こんな本を渡されて、私が否定できないことを知りながら、「幼少期の悲しい体験のせいでちなつの性格が歪んだのではないか、」と黙らせ、『ちなつの性格が我慢できないから、黙って出ていくしかなかったんだ』と、私の責任で自分が出て行ったと言っています。」
『それねー
立派なモラルハザードだから!』
『よくあることです、調停員もわかっていますよ。』
え?自分がモラハラされ、洗脳されていたなんて!!
I弁護士はまた言った。
『言ったでしょう。旦那は地獄列車に乗っているんだから』
「先生、私みたいに、夫に捨てられたひと、いますか・・・?惨めでみじめで、人生を呪うんです。」
「いでぐちさん、いますよ、そういう奥さん。人は表面で見えないだけで、みんな何かしら背負って生きています。あなただけではありませんよ。」
心の奥から力が湧いてくるような感覚を覚えた。
その打ち合わせの日から、私はだんだんと泣かなくなった。
もう、ツクツクボウシが鳴き始めた夏も終わりのころだった。
こどもの第六感
夫が一方的に出て行って、残された私と娘二人。
夫が言葉尻をとらえて食って掛かっていた時は、それなりに口論があり、娘たちはそのたびに、まずまずい、と、自分たちのやるべきことを、ささっと済ませ、部屋で静かに遊んでいた。
あまり派手な夫婦喧嘩は見せたつもりはない。
今思えば、子供たちの発言には、『何かを感じ取っているかのような・第六感』的なものがあった。それを紹介したい。
夫が私によそよそしくなった3月以降、みいなが、『みいなパパと寝たい~』といって、夫婦で寝ていたベッドでパパと寝たがるようになった。すると、あいこも負けじと『私も!!』そこで、火曜日と金曜日だけ、みいなはパパと一緒に寝ることになった。
今までそんなこと、一言も言わなかったのに。
夫が出て行ったあと、みいなに聞いた。
「パパが様子がおかしいこと、気づいていて、一緒に寝たいなんて言ったの?」
みいなはキョトンとしていた。
もう一つは3年前。
広島で、不倫発覚する前、口を開けば夫が私を責めてせめて、まるで生きている価値がないような、妻としても母としても人間として最悪だ!と言わんばかりに責め立てていたころ、
私は家族での夕食の食卓でもしょんぼりしていた。
そんな中で、当時4歳のあいこが舌っ足らずにパパとママにこういった。
「ねえね、ごはん食べたらさ、みんなでさ、手てつないでさ、お散歩しよ~」
今思い出しても、私は泣けてくる。
無邪気に笑うあいこ、本当はすべてお見通しだったんじゃないかな。
その日の夜、約束通り、あいことみいなと私たち夫婦は、近所を夜散歩した。
そんなことしたことなかったのに。
子供たちの背中を見て、「もうこんな光景を見ることはないんだろうな・・・これが最後かな・・」と思うと涙が止まらなかった。
現在7歳のあいこは、当然そのことは覚えていない。
あいこ、ごめん、あの時は、なんとか夫婦でやり直したけれど、今回はパパ逃げちゃったよ。。。どうにもできなかったよ。
ねえ、みいなとあいこは、大好きなパパとママの間に、何を感じていたの?