うれし涙
今年の記録的な暑い夏は、あいこが生まれた年を思い出させるような暑さの夏だった。
あいこが生まれた年の夏は私が経験してきた夏の中で一番「暑い」と思った。
朝から晩まで、クーラー嫌いの私がつけっぱなしにしていたほどだ。
同じような猛暑は、その気がなくてもそのころを思い出し、その後のあいこの成長を楽しく思い起こしているうちに、一年前の「あの日」へつながった。そこで楽しい回想は地獄へと落ちて終わる。その繰り返しを何度かしているうちに、気分がふさぎ込むことが多くなった。
「なぜ?」「私が何の仕打ちをしたというのか?」「この出来事の意味は?」「みいなとあいこをなぜ傷つけるのか?」
新しいスタートを切ったはずの私、足を取られて前に進めない夏だった。
そんな夏が終わり、涼しくなってきたころ、地獄への回想をすることがだんだんと減っていった。
夏に入社した会社も3カ月がたち、だいぶ慣れてきた。「仕事が楽しい」と思えるようになった。子どもとの悩みも多いが忙しく、あわただしく、でも総じて平和な日々。住む場所がある、お金を使わずに遊ぶハイキングや散歩を楽しむ日々、毎晩食卓を囲む幸せなとき。とりあえず生活が出来ている。
ある日ふと思った。『好きな人が欲しいな』
この気持ちに一番驚いたのは私自身。次に湧いてきた感情は、「感動」=うれし涙 だった。
今でも信じられるものは「自分とお金」だけ、これは変化なし。
あれもほどにも苦しみ、傷つき、破壊された私の人格、人生、家族、そこからの苦しさからの反撃、戦い…金銭的負担…世間の人間関係の「底辺」と思われる経験をしてきた私が、よくぞ「好きな人が欲しい」と望めるまで回復したな、と。素直に、まっすぐに「恋」を望めるようになった自分の心に感激した。そして、泣いた。よく頑張ってきたね、誰かを好きになりたいと思えるほどに心が元気になってきたんだね。
私は自分で自分に感動して涙した。「ちなつ、頑張ったね・・・」
心が少しずつ健康になっていくのを私は感じ始めていた。
父親が居ないこと
帰広することが、去年の今頃はたった一つの希望の光だった。
帰って何が待っているわけでもなかった、仕事がある保証もなかった。
ただ、東京にいる意味はもはや、何一つなかった。
1年後の今年の夏休み、みいなが1年生の時から続けている、夏休み中、International schoolのsummer course に行かせること、を実行するため、過去2年連続行かせていた
International schoolへ連絡をした。
去年の話だ。
去年は、1年生になったばかりのあいこも一緒に二人そろって行かせるため、文京区の学校を探し、summer courseに申し込んだ。1週間と2週間コースがあり、値段も高いため、迷い、早漏元夫になんどか意見を求めたけれど、ほとんど無関心だったな。
それもそうだ、蒸発する直前だった。
私はそんなこと知る由もなく、2週間のコースを二人分申し込み、計14万円支払った。
そして元夫は私達を捨てて消えた。
私は生活が不安になり、引っ越しをしたり、学童を辞めたり、出来る限りの節約対策をした。そして、このsummer courseをキャンセルすべく、学校に連絡したが、一切キャンセルに応じないという。地獄に突き落とされたショックでパニック状態であった私は、二人分、2週間分の計14万円を取り戻すべく、恥をさらして、夫が消えて急に生活が苦しくなったこと、だからキャンセルしたい、と伝えた。
それでも、回答はNOだった。
しかたなく、二人を通わせた。みいなとあいこは、2週間のコースは楽しく、有意義なものであったが、元夫が消えることを知っていれば、当然14万も払ってサマーコースに行かせることはしていなかった。
そんな一年前の恨めしい出来事を思い出しながら、international schoolに連絡をすると、すでに学校は閉鎖しており、先生のみが自宅に来てレッスン可能だと回答してくれた。
2日間、3時間ずつ自宅に来てもらい、英会話レッスンをお願いした。
2日目が終わって礼を言って下まで送った際、J先生は私に聞いた。
『あの子たちには父親はいるのかい?』
レッスンの様子は扉が閉まっていたので分からなかったが、どうやら、みいながべたべたとJ先生に甘えていたようだった。
「ああ、またやったのか。」
あの人生最悪の出来事の後から、みいなはパパと年が近い男性に、やたらべたべたとまとわりつくようになった。明らかに、人肌恋しいような、見る人がみれば、
「ああ、そういう事情で…」と言われかねないような。
案の定、言い当てられてしまった。
様々な子供たちに接してきたJ先生だからこそ、様子が違うことくらいお見通しなんだ。
私は、みいなの行動に対する親としての気恥ずかしさと、無意識でやるみいなへの同情と、じゃあ私がどうすればよかったのか、というやりきれない思いで苦しくなった。
何もできない。
こんな目にみいなを合わせたのは誰だ?
夫婦別姓の世の中に
今回私の人生におけるもっとも過酷であった一連の出来事で学んだことは、
「人生、何が起こるかわからない。」
諸行無常、とはこのこと、一生の愛を誓ったカップルは多く離婚し、不幸はいつ降ってくるかわからない。災害だってそうだ。どんなに我慢し、守ってきたとしても、相手があることならばなおさら。
そして、「誰も信用しない」
もう一つ、この体験で改めて声を大にして言いたいこと。
夫婦別姓を認めるべき
結婚する時だって手続きが大変だったけれど、離婚時は、子供の名義変更もあり、それはそれは大変以上だった。
まずは前の戸籍から外れた除籍の証明を遠隔地のため郵送で請求、
それをもって家庭裁判所へ子どもの氏の変更申し立てをし、
認められたらそれをもって再度区役所へ行き、子どもの氏のを住民票上で変え、
住民票の写しを持って免許を変更し、
免許証をもってそれぞれの金融機関へ出向き名義変更し、
各種生命保険の名義を電話で伝え、書面を出し、
死亡保険金受取人を娘にし、
株証券の名義変更をし、
公共料金各所に名義変更を伝え、→ここで何度か、「変わった理由は?」ときかれ、不愉快だった。
携帯やネット名義を変え、
通販やすべての取引先の登録名を変更し
子どもたちの持ち物すべての氏を変え
縫いなおしたり、縫いつけたり。
なぜ女性だけがこんなtime consuming な作業をしなければならないのか?
時には変更の理由を聞かれ、
元夫の氏をそのまま使う人がいるけれど、それでは解決にならない。
私のように、忌々しい氏を二度と名乗りたくないと思うひとだっている。
数年前、夫婦別姓法案が議論されたときに、反対した議員たちの理論はこうだった。
「同じ氏でないと、家族の一体感がなくなる。」
はあ??同じ氏でも、平気で家族を捨てるゲスもいるのに?何が一体感だぁ?
膨大な氏変更の手続きが終了して疲れ果てたところで、社会に出れば、氏が変わったことで回りは離婚したことがすぐにわかる。
知られたくないのに。精神的にさらに気を揉むこともあり、ダメージがある。
先進国の中、いや、新興国を含めても、別姓を認めていないのは日本だけだ。
「離婚しなければ問題ない事」という理屈は、この夫婦別姓導入議論とは違う話だ。
人生何があるかわからないのだ。離婚しようがしまいが、夫婦別姓を認めるべきだ。
一日も早く、夫婦別姓が選べる世の中になってほしい。みいなとあいこが結婚するころには実現しているように切に願う。
めぐり合わせ
地獄に突き落とされてから1年。
あの時は、一年後の事なんて何も考えられなかった。
「なぜ?」「どうしてこんな卑怯なことを?」「この12年間の結婚生活の意味は?」
「あんなにかわいがっていたと思っていた子供たちを見捨てて?」
憎い、苦しい、恨めしい、嫉妬、怒り、絶望、他にどんな形容詞があれば足りるだろう。
この世のあらとあらゆるネガティブな感情を抱え込んで、毎日仕事へ出かけ、子供たちの世話をし、弁護士と打ち合わせをし、たくさんのお金を払い、隠れるように暮らし…長い長い闘い…
ほぼ私の望み通りに離婚が成立してから5か月。
願っていた目標慰謝料金額を取った。(昔の不倫女Yの解決金を含む)
望み通り、仕事を決め、広島に戻ってきた
子どもたちは、それぞれ習い事のいい場所を見つけ、楽しく通っている。
元のママ友パパ友の仲間と時々遊んでいる。
どうしても、かなえられずに苦しんでいたのが私の「仕事」だった。
T人事部長に前職に戻りたいと相談していたが、結局「これ」といった確実なポジションがなく、大丈夫です、と断りを入れた。
私も今思えば、「戻りたくなかった」のだ。
何一つ恥ずかしいことはしていない、皆口をそろえてそういう、だけど、たった1年半前に元夫の仕事についていくと退職した私が、苗字が変わって戻ってきたら、後ろ指を指す人だっているはずだ。私は身も心もボロボロになって帰ってきたのに、そんなことを想像するだけで耐えらえないと思った。
あんなに戻りたいと思っていたのに、「惨めで戻りたくなかった」
もし時計を巻き戻せるなら・・・辞めてはいなかった。
T部長の心配を大丈夫だと言って断り、始めた仕事は「英語講師」だったが、実際始めて見ると、「保育要員」であった。毎時間おむつ替えをし、噛みつきぐせのあるモンスターに引っかかれ、噛みつかれ、それでも、この仕事があるから広島に帰れた、という思いがあったから、自分を納得させようと頑張った。しかし、入社1週間後に手渡されたピアノの本、「練習しておいて」に、「ああ、違うな」
正社員。私は40代、ひと時もキャリアを積むためには無駄にしてはいけない。
速攻採用されたメーカーの通訳。遠いので早朝に出勤する私に、みいなが朝ベランダから私が見えなくなるまで見送ってくれた。ごめんね、我慢させて、でも頑張るからね・・・この仕事もいずれ不可抗力により、出勤できなくなる。
「あとは仕事だけ、仕事だけ元に戻れたら、私が掲げていた願いは叶うのに。」
同業種に応募すると面接までこぎつけたが、相手はただの興味本位であった。
私の履歴書をみて、ほほう、と。戻ってきた理由までさらして面接に来ている私に、根掘り葉掘り私の経歴、経験を聞き出し、不採用とした。
同時に、ずっと連絡をしたくてもためらっていたある人がいた。Mさんとは、前職のとき、同じ職種の窓口として会社を超えて付き合いがあった。経験の長いMさんに、よく相談の電話をしたものだ。そのMさんに連絡したいと思いながら、下心見え見えでいやらしい、と思い、どうしてもできないでいた。
でも、思い切って「実は戻ってきています」と連絡してみた。
Mさんはすぐに人事とのアポを取ってくれた。
会社に出向くと、笑顔のMさんが、前職での私の仕事ぶりを伝えてくれており、人事担当者を通じ、あっという間に選考が進んだ。役員面接の前には、『もう現職に退職を伝えて大丈夫です。内々定ですから。』とまで。
私は入社案内の封筒を抱えながら、
泣きながら家路についた。
東京から帰ってきてから、2か月ごとに仕事を変えていた。英語講師→保育要員、ピアノを弾く日本語講師 通訳→プレハブの簡易トイレの事務所で、通訳は週に1回。他仕事無し。
私はシングルマザー、仕事を選り好みしている場合ではないことは百も承知。
この4か月間の意味は分からない。自分が何をしたいのか、を考えさせられる時だったのだろうか?私は結果的に、ご縁のあったMさんを通じ、前職と同業の仕事を、しかも以前と同じ部署で仕事が出来ることになった。
めぐり合わせ、だろうか。
いま高らかに言おう。望みはすべて叶いました。
夫選びに失敗したけれど。→私は初めから、この夫を望んではいなかったのではないか?願いではなかったのではないだろうか。
パパの不倫-みいなの攻撃
あいこの誕生日に早漏元夫が送ってきた荷物。
その送り状をふと見たとき、蒸発したときに準備して入居した一人暮らし用のアパートの住所とは違うことに気づいた私。1年もたたずに転居とは、離婚してすぐに「女」と暮らし始めたんだな、と容易にわかった。
ある週末の夕食時。私は3人暮らしになってから始めたことの一つに、『手作り餃子』がある。タネから作り、みいなとあいこと3人で皮に包む。小学校低学年と中学年のふたりとお喋りしながら包むのが、コミュニケーションとなっている。
その餃子を夕食時つついていると、二人が「パパの餃子の話」を始めた。
東京で面会交流をしたとき、子どもたちが、「パパは料理をしているのか、」と尋ねたところ、『昨日餃子をつくったんだ、』と。家族のためにいくら私が望んでもほとんど料理をしてくれなかった糞夫は自慢げに二人に話したそうだ。その話はすでに聞いていたが、思い出したようにまた話題にした。
『一人で餃子作って包むなんてやるわけないじゃん。』 と前と同じセリフを返した。
そして、今はみいなとあいこが一度行ったことのあるあの新築のアパートではなく、引っ越したようだよ、と伝えた。
『あのアパートは狭かったんでしょ?離婚したからすぐに「女」と住み始めたんだと思うよ。』と言った。
「そうなの?」
「わかんないけど、引っ越すってお金かかるからね、離婚してすぐ引っ越すってことは、そーゆーことよ。」
『みいな、ちょっとパパに電話してみる。』
そういうと、食事の途中で突然みいなが電話をかけ始めた。
なかなか電話に出なかった様子・・・・
戻ってきたみいな。
『あのねー、パパやっと電話に出たけど、電話の後ろでゴソゴソ音がしてて・・・すごいちっちゃい声でね、こそこそ話してた。で、「パパ引っ越したんでしょ?誰と住んでるの?」って聞いたら、「違うよ、一人暮らしだよ」って言ったんだよ。「本当に一人なの?もう結婚したんでしょ?」「子供出来たら、もう私たちに会いに来ないでしょう?」ー「みいな、そんなこと言わないでよ~」「そんなことないよー」ってごまかすの。「みいなはもう4年生だよ、」って言ったんだ。「なんでパパ出て行ったの?」ってまた聞いたら、「ママが怖かったから」って言ってたよ。』
私は最後の答えにまた久しぶりの憎しみ怒りがよみがえった。
最後の調停で、不成立にして裁判にします、という私に恐れおののいて、『慰謝料』を私の言い値で支払うことに同意した糞元夫。自らの過ちを認めた『慰謝料』を払うくせに(一括で支払えるほどの能力もないくせに)、この期に及んでもなお、嘘を重ねるのか。嘘だらけの『パパ』の言葉にさらに『嘘』を重ねて子供たちを欺いているのか。
自分が「不倫の末逃げた」責任をまだ私に擦り付け、私を侮辱しているのか。
一生許すつもりはない、やはり許せない!
私は初めて、『不倫』という言葉の意味をみいなとあいこに教えた。
私は4年前の不倫については、一切子供たちには言及してこなかったが、初めて明かした。そして、何年も前からママがパパの不倫で苦しんできたこと、今回も、東京に引っ越そう、と言った時から高い確率で「家族を捨てることを計画していた」こと、急にいなくなったのは、また別で不倫していて女と暮らしたいから、ママはその証拠はつかめなかったけど、実質的にそれを認める形でパパが『ごめんなさいのお金』=慰謝料 をママに払うことを偉い人の前=裁判所 で約束したこと、を話した。
二人は、4年前の話に驚いていた…まだちゃんと理解するのには、時間がかかるだろう。
時間が経っていく。傷はいえるはずもない。
でも、少しずつ、時折このことを話すうちに、くだらないが気づいたこと。
モテたことのない男と結婚してはいけない。
既婚者でちょっとでもモテるとすぐに勘違いし、不倫に走る。
海外生活していて英語が堪能?醜男なのに。
身の程知らずのもてない男。
モテない男と結婚してはいけない。
うしろむき
意を決して出した「引っ越しました」はがき。
離婚して3か月、引っ越して2か月半、生活も落ち着いてきたからと思って出したはがきだったが、まだ心では時期早々だったのか、この日を境に、気分は「うしろむき」になっていった。
同じころ、誕生日が近づくあいこに、早漏不倫元夫から小包が届いた。誕生日プレゼントだった。
その送り状の住所を見て、さらに嫌な気持ちになった。蒸発した直後に住んでいたワンルームの住所と違っていたのだ。
「女と暮らし始めたんだな」
すぐにわかって、送り状を破り捨てた。
そばにいた母は「もう関係ないよ」と声をかけたが、私のこころはさらに『うしろむき』になった。
なぜひどい目に合った私はすべてを背負い、傷ついた心と、思い通りにならない仕事で苦しんでいるのか?
それなのに、ゲスはのうのうと不倫女と暮らし、好きなようにしている。
慰謝料もらったって、この世の中の不公平はなんなのか?
なぜ私とみいなとあいこ?
何度も不倫され、苦しめられた結婚生活。最後は私を「愛着障害だ」と、私の幼少の辛い体験を悪用し、私が反論できないこの辛い体験のせいで、おまえは性格が悪い、とモラハラされた日々。
早漏元夫は出ていくまでのストーリーを念入りに練ったつもりだったようだった。
突如蒸発した元夫。
原因は、ゲス男のシナリオではなく、早漏夫の不倫。今まで一切モテたことがない醜男が、既婚者というだけで、英語が話せるというだけで、モテると勘違いした身の程知らずの思い上がりの結末が、妻子を捨てることだった。
不倫された側は、なんて理不尽なんだと、なんで私なのか、と、
「あんなやつ、出て行ってくれてよかった」と思ったし、「離婚してよかった」とも思う。まだどうせ同じことを繰り返すから。
でも、どうしても、「早漏不倫夫が不倫してくれたから今の私がある」なんて
どうやっても思えない。
あの不倫に意味があった、それは「違う」
不倫は家族の人生を変えるもの。傷は一生癒えない。記憶は消せない。
人を信じられなくなった。
みいなの誕生日が近づいてくると、去年の今頃を嫌でも思い出す。
ホテルの宿泊券があるから泊まろうよ、と誘うと、快諾。「ああ、6月は一緒にすごしてくれるんだ」と変に安心したっけ。今思うと、おかしな気持ち。だって、あからさまにモラハラが始まったのは3月から。急に喧嘩を吹っ掛けてきては人格否定をする早漏元夫の機嫌に敏感になっていた。私さえ、カウンセリングをうけて、治れば家族でいられると、本気で思っていたから。
都会の50階に位置する高級ホテルのプールではしゃぐみいなとあいことは対照的に、私とは距離を置いて能面のような顔をした早漏夫がいたな。
その一週間後のみいなの7回目の誕生日。いつものようにビデオを回してHappy Birthday を歌った私達。
その2週間後に、突如蒸発するなんて・・・いや、様子がおかしい、まずい、とおもっていたけれど、気の小さい早漏夫が、こんな大胆な人として最低の行動にでるとは
思いもしなかった。
離婚してよかった、
でも、家族を、4人家族を守りたかった。
離婚成立から3か月、願った通りに広島に帰ってきたけれど、子供たちの生活以外、私の仕事と精神状態は、そんな簡単にリセットできるはずもなかった。
「いつかきっと、懐かしく思い出せる日がきますからね、時間が癒してくれます。時間はかかるけど、少しずつ、傷は癒えます。」
と言ってくれた、Kの言葉が染みる。
人生最悪の日が、まもなくやってくる。
再出発の日としてお祝いするのは、まだ先になりそうだ。
うしろむきの日々は続く。
『Just Moved』
東京から、逃げるように引っ越してきた私達。それは、引っ越す理由を知られたくなかったから。1年半前に東京へ引っ越した時、温かく迎えてくれた新旧友達、年賀状を今年貰いっぱなしで返事を書けないでいた昔からの友達・・・
20枚程度だが、まったく事情を知らせていない友達へ、思い切って
「引っ越しました」はがきを出した。
一つ一つ、メッセージを添えて…
ある者には、『人を信じられなくなりました』と泣きごとを書いたり。
ある人には『人生何があるかわかりません』と意味深に。
『夫婦別姓の世の中を願います』など。→これは本当。
投函するとき、ドキドキした。
そして、もやもやした。なぜか?至らない妻ではあったかもしれないが、ここまで貶められるほどのことはしていない、私は間違ったことはしていないのに、なぜ惨めに思うのか・・・?名前が変わったことですぐにわかるではないか?なぜ?なぜ・・・?
離婚から3か月、引っ越しから2か月。外でMINIを見れば嫌な気持ちになり、何かと早漏元夫の影が心の中にあり、苦しんでいる。
それはたった3カ月では癒されるはずもない、仕方のないことなのに。
はがきが到着した友人たちは、驚いて電話をくれる人、LINEをくれる人、等。
特に、電話をくれたNさんは、みいなとあいこが2,3、歳だったころからを知る、昔のご近所さんであった。毎年庭の玉ねぎ収穫や、年末は餅づくりのお手伝いに呼んでもらっていた。近所に買ったマンションを売ってまで東京へ転居する私たちを、それはそれは寂しがってくれた。
みいなとあいこの様子を心配しながらも、Nさんはむしろ、この数か月、地獄の底を傷だらけになってさまよって生還した私を、心配していた。
言葉では聞かなくても、声色で、私に「辛かったね」と言っていた。
それを感じた私は、明るく「大丈夫です、カープのそばで幸せで♫」と笑っていたものの、段々閉じていた扉が開いていくのを感じた。
まずい、泣いてしまう。。。
このままだと、何が起こったかすべて喋って受け止めてもらいたくなりそうだ。
あいこにわざと電話をかわってもらった。
東京を出発する前に会った、元同僚のKさんは、はがきをみて涙が出た、とLINEをくれた。同じく離婚歴のあるKとは、レストランでお互い泣きじゃくった。
経験したものでないとわからない思いを・・・
勇気を出して投函した「Just Moved」のはがき。
元気ですよと伝えるはずだったのに、なぜだか私はだんだん後ろ向きになっていった。