めぐり合わせ
地獄に突き落とされてから1年。
あの時は、一年後の事なんて何も考えられなかった。
「なぜ?」「どうしてこんな卑怯なことを?」「この12年間の結婚生活の意味は?」
「あんなにかわいがっていたと思っていた子供たちを見捨てて?」
憎い、苦しい、恨めしい、嫉妬、怒り、絶望、他にどんな形容詞があれば足りるだろう。
この世のあらとあらゆるネガティブな感情を抱え込んで、毎日仕事へ出かけ、子供たちの世話をし、弁護士と打ち合わせをし、たくさんのお金を払い、隠れるように暮らし…長い長い闘い…
ほぼ私の望み通りに離婚が成立してから5か月。
願っていた目標慰謝料金額を取った。(昔の不倫女Yの解決金を含む)
望み通り、仕事を決め、広島に戻ってきた
子どもたちは、それぞれ習い事のいい場所を見つけ、楽しく通っている。
元のママ友パパ友の仲間と時々遊んでいる。
どうしても、かなえられずに苦しんでいたのが私の「仕事」だった。
T人事部長に前職に戻りたいと相談していたが、結局「これ」といった確実なポジションがなく、大丈夫です、と断りを入れた。
私も今思えば、「戻りたくなかった」のだ。
何一つ恥ずかしいことはしていない、皆口をそろえてそういう、だけど、たった1年半前に元夫の仕事についていくと退職した私が、苗字が変わって戻ってきたら、後ろ指を指す人だっているはずだ。私は身も心もボロボロになって帰ってきたのに、そんなことを想像するだけで耐えらえないと思った。
あんなに戻りたいと思っていたのに、「惨めで戻りたくなかった」
もし時計を巻き戻せるなら・・・辞めてはいなかった。
T部長の心配を大丈夫だと言って断り、始めた仕事は「英語講師」だったが、実際始めて見ると、「保育要員」であった。毎時間おむつ替えをし、噛みつきぐせのあるモンスターに引っかかれ、噛みつかれ、それでも、この仕事があるから広島に帰れた、という思いがあったから、自分を納得させようと頑張った。しかし、入社1週間後に手渡されたピアノの本、「練習しておいて」に、「ああ、違うな」
正社員。私は40代、ひと時もキャリアを積むためには無駄にしてはいけない。
速攻採用されたメーカーの通訳。遠いので早朝に出勤する私に、みいなが朝ベランダから私が見えなくなるまで見送ってくれた。ごめんね、我慢させて、でも頑張るからね・・・この仕事もいずれ不可抗力により、出勤できなくなる。
「あとは仕事だけ、仕事だけ元に戻れたら、私が掲げていた願いは叶うのに。」
同業種に応募すると面接までこぎつけたが、相手はただの興味本位であった。
私の履歴書をみて、ほほう、と。戻ってきた理由までさらして面接に来ている私に、根掘り葉掘り私の経歴、経験を聞き出し、不採用とした。
同時に、ずっと連絡をしたくてもためらっていたある人がいた。Mさんとは、前職のとき、同じ職種の窓口として会社を超えて付き合いがあった。経験の長いMさんに、よく相談の電話をしたものだ。そのMさんに連絡したいと思いながら、下心見え見えでいやらしい、と思い、どうしてもできないでいた。
でも、思い切って「実は戻ってきています」と連絡してみた。
Mさんはすぐに人事とのアポを取ってくれた。
会社に出向くと、笑顔のMさんが、前職での私の仕事ぶりを伝えてくれており、人事担当者を通じ、あっという間に選考が進んだ。役員面接の前には、『もう現職に退職を伝えて大丈夫です。内々定ですから。』とまで。
私は入社案内の封筒を抱えながら、
泣きながら家路についた。
東京から帰ってきてから、2か月ごとに仕事を変えていた。英語講師→保育要員、ピアノを弾く日本語講師 通訳→プレハブの簡易トイレの事務所で、通訳は週に1回。他仕事無し。
私はシングルマザー、仕事を選り好みしている場合ではないことは百も承知。
この4か月間の意味は分からない。自分が何をしたいのか、を考えさせられる時だったのだろうか?私は結果的に、ご縁のあったMさんを通じ、前職と同業の仕事を、しかも以前と同じ部署で仕事が出来ることになった。
めぐり合わせ、だろうか。
いま高らかに言おう。望みはすべて叶いました。
夫選びに失敗したけれど。→私は初めから、この夫を望んではいなかったのではないか?願いではなかったのではないだろうか。
パパの不倫-みいなの攻撃
あいこの誕生日に早漏元夫が送ってきた荷物。
その送り状をふと見たとき、蒸発したときに準備して入居した一人暮らし用のアパートの住所とは違うことに気づいた私。1年もたたずに転居とは、離婚してすぐに「女」と暮らし始めたんだな、と容易にわかった。
ある週末の夕食時。私は3人暮らしになってから始めたことの一つに、『手作り餃子』がある。タネから作り、みいなとあいこと3人で皮に包む。小学校低学年と中学年のふたりとお喋りしながら包むのが、コミュニケーションとなっている。
その餃子を夕食時つついていると、二人が「パパの餃子の話」を始めた。
東京で面会交流をしたとき、子どもたちが、「パパは料理をしているのか、」と尋ねたところ、『昨日餃子をつくったんだ、』と。家族のためにいくら私が望んでもほとんど料理をしてくれなかった糞夫は自慢げに二人に話したそうだ。その話はすでに聞いていたが、思い出したようにまた話題にした。
『一人で餃子作って包むなんてやるわけないじゃん。』 と前と同じセリフを返した。
そして、今はみいなとあいこが一度行ったことのあるあの新築のアパートではなく、引っ越したようだよ、と伝えた。
『あのアパートは狭かったんでしょ?離婚したからすぐに「女」と住み始めたんだと思うよ。』と言った。
「そうなの?」
「わかんないけど、引っ越すってお金かかるからね、離婚してすぐ引っ越すってことは、そーゆーことよ。」
『みいな、ちょっとパパに電話してみる。』
そういうと、食事の途中で突然みいなが電話をかけ始めた。
なかなか電話に出なかった様子・・・・
戻ってきたみいな。
『あのねー、パパやっと電話に出たけど、電話の後ろでゴソゴソ音がしてて・・・すごいちっちゃい声でね、こそこそ話してた。で、「パパ引っ越したんでしょ?誰と住んでるの?」って聞いたら、「違うよ、一人暮らしだよ」って言ったんだよ。「本当に一人なの?もう結婚したんでしょ?」「子供出来たら、もう私たちに会いに来ないでしょう?」ー「みいな、そんなこと言わないでよ~」「そんなことないよー」ってごまかすの。「みいなはもう4年生だよ、」って言ったんだ。「なんでパパ出て行ったの?」ってまた聞いたら、「ママが怖かったから」って言ってたよ。』
私は最後の答えにまた久しぶりの憎しみ怒りがよみがえった。
最後の調停で、不成立にして裁判にします、という私に恐れおののいて、『慰謝料』を私の言い値で支払うことに同意した糞元夫。自らの過ちを認めた『慰謝料』を払うくせに(一括で支払えるほどの能力もないくせに)、この期に及んでもなお、嘘を重ねるのか。嘘だらけの『パパ』の言葉にさらに『嘘』を重ねて子供たちを欺いているのか。
自分が「不倫の末逃げた」責任をまだ私に擦り付け、私を侮辱しているのか。
一生許すつもりはない、やはり許せない!
私は初めて、『不倫』という言葉の意味をみいなとあいこに教えた。
私は4年前の不倫については、一切子供たちには言及してこなかったが、初めて明かした。そして、何年も前からママがパパの不倫で苦しんできたこと、今回も、東京に引っ越そう、と言った時から高い確率で「家族を捨てることを計画していた」こと、急にいなくなったのは、また別で不倫していて女と暮らしたいから、ママはその証拠はつかめなかったけど、実質的にそれを認める形でパパが『ごめんなさいのお金』=慰謝料 をママに払うことを偉い人の前=裁判所 で約束したこと、を話した。
二人は、4年前の話に驚いていた…まだちゃんと理解するのには、時間がかかるだろう。
時間が経っていく。傷はいえるはずもない。
でも、少しずつ、時折このことを話すうちに、くだらないが気づいたこと。
モテたことのない男と結婚してはいけない。
既婚者でちょっとでもモテるとすぐに勘違いし、不倫に走る。
海外生活していて英語が堪能?醜男なのに。
身の程知らずのもてない男。
モテない男と結婚してはいけない。
うしろむき
意を決して出した「引っ越しました」はがき。
離婚して3か月、引っ越して2か月半、生活も落ち着いてきたからと思って出したはがきだったが、まだ心では時期早々だったのか、この日を境に、気分は「うしろむき」になっていった。
同じころ、誕生日が近づくあいこに、早漏不倫元夫から小包が届いた。誕生日プレゼントだった。
その送り状の住所を見て、さらに嫌な気持ちになった。蒸発した直後に住んでいたワンルームの住所と違っていたのだ。
「女と暮らし始めたんだな」
すぐにわかって、送り状を破り捨てた。
そばにいた母は「もう関係ないよ」と声をかけたが、私のこころはさらに『うしろむき』になった。
なぜひどい目に合った私はすべてを背負い、傷ついた心と、思い通りにならない仕事で苦しんでいるのか?
それなのに、ゲスはのうのうと不倫女と暮らし、好きなようにしている。
慰謝料もらったって、この世の中の不公平はなんなのか?
なぜ私とみいなとあいこ?
何度も不倫され、苦しめられた結婚生活。最後は私を「愛着障害だ」と、私の幼少の辛い体験を悪用し、私が反論できないこの辛い体験のせいで、おまえは性格が悪い、とモラハラされた日々。
早漏元夫は出ていくまでのストーリーを念入りに練ったつもりだったようだった。
突如蒸発した元夫。
原因は、ゲス男のシナリオではなく、早漏夫の不倫。今まで一切モテたことがない醜男が、既婚者というだけで、英語が話せるというだけで、モテると勘違いした身の程知らずの思い上がりの結末が、妻子を捨てることだった。
不倫された側は、なんて理不尽なんだと、なんで私なのか、と、
「あんなやつ、出て行ってくれてよかった」と思ったし、「離婚してよかった」とも思う。まだどうせ同じことを繰り返すから。
でも、どうしても、「早漏不倫夫が不倫してくれたから今の私がある」なんて
どうやっても思えない。
あの不倫に意味があった、それは「違う」
不倫は家族の人生を変えるもの。傷は一生癒えない。記憶は消せない。
人を信じられなくなった。
みいなの誕生日が近づいてくると、去年の今頃を嫌でも思い出す。
ホテルの宿泊券があるから泊まろうよ、と誘うと、快諾。「ああ、6月は一緒にすごしてくれるんだ」と変に安心したっけ。今思うと、おかしな気持ち。だって、あからさまにモラハラが始まったのは3月から。急に喧嘩を吹っ掛けてきては人格否定をする早漏元夫の機嫌に敏感になっていた。私さえ、カウンセリングをうけて、治れば家族でいられると、本気で思っていたから。
都会の50階に位置する高級ホテルのプールではしゃぐみいなとあいことは対照的に、私とは距離を置いて能面のような顔をした早漏夫がいたな。
その一週間後のみいなの7回目の誕生日。いつものようにビデオを回してHappy Birthday を歌った私達。
その2週間後に、突如蒸発するなんて・・・いや、様子がおかしい、まずい、とおもっていたけれど、気の小さい早漏夫が、こんな大胆な人として最低の行動にでるとは
思いもしなかった。
離婚してよかった、
でも、家族を、4人家族を守りたかった。
離婚成立から3か月、願った通りに広島に帰ってきたけれど、子供たちの生活以外、私の仕事と精神状態は、そんな簡単にリセットできるはずもなかった。
「いつかきっと、懐かしく思い出せる日がきますからね、時間が癒してくれます。時間はかかるけど、少しずつ、傷は癒えます。」
と言ってくれた、Kの言葉が染みる。
人生最悪の日が、まもなくやってくる。
再出発の日としてお祝いするのは、まだ先になりそうだ。
うしろむきの日々は続く。
『Just Moved』
東京から、逃げるように引っ越してきた私達。それは、引っ越す理由を知られたくなかったから。1年半前に東京へ引っ越した時、温かく迎えてくれた新旧友達、年賀状を今年貰いっぱなしで返事を書けないでいた昔からの友達・・・
20枚程度だが、まったく事情を知らせていない友達へ、思い切って
「引っ越しました」はがきを出した。
一つ一つ、メッセージを添えて…
ある者には、『人を信じられなくなりました』と泣きごとを書いたり。
ある人には『人生何があるかわかりません』と意味深に。
『夫婦別姓の世の中を願います』など。→これは本当。
投函するとき、ドキドキした。
そして、もやもやした。なぜか?至らない妻ではあったかもしれないが、ここまで貶められるほどのことはしていない、私は間違ったことはしていないのに、なぜ惨めに思うのか・・・?名前が変わったことですぐにわかるではないか?なぜ?なぜ・・・?
離婚から3か月、引っ越しから2か月。外でMINIを見れば嫌な気持ちになり、何かと早漏元夫の影が心の中にあり、苦しんでいる。
それはたった3カ月では癒されるはずもない、仕方のないことなのに。
はがきが到着した友人たちは、驚いて電話をくれる人、LINEをくれる人、等。
特に、電話をくれたNさんは、みいなとあいこが2,3、歳だったころからを知る、昔のご近所さんであった。毎年庭の玉ねぎ収穫や、年末は餅づくりのお手伝いに呼んでもらっていた。近所に買ったマンションを売ってまで東京へ転居する私たちを、それはそれは寂しがってくれた。
みいなとあいこの様子を心配しながらも、Nさんはむしろ、この数か月、地獄の底を傷だらけになってさまよって生還した私を、心配していた。
言葉では聞かなくても、声色で、私に「辛かったね」と言っていた。
それを感じた私は、明るく「大丈夫です、カープのそばで幸せで♫」と笑っていたものの、段々閉じていた扉が開いていくのを感じた。
まずい、泣いてしまう。。。
このままだと、何が起こったかすべて喋って受け止めてもらいたくなりそうだ。
あいこにわざと電話をかわってもらった。
東京を出発する前に会った、元同僚のKさんは、はがきをみて涙が出た、とLINEをくれた。同じく離婚歴のあるKとは、レストランでお互い泣きじゃくった。
経験したものでないとわからない思いを・・・
勇気を出して投函した「Just Moved」のはがき。
元気ですよと伝えるはずだったのに、なぜだか私はだんだん後ろ向きになっていった。
「元」義理両親との関係
あまり人に話すことが出来ない、出来なかった、私の身に起こった出来事を面と向かって話した人は数少ない。誰がこんな惨めな私を受け止めてくれるのか、聞いてくれるのか?何かしてほしいわけじゃない、私を昔から知る人にだけ話した。
そのたびに必ず聞かれる質問がある。
『向こうの義理両親は、何も言ってこないの?』
この疑問に答えようと思う。
元不倫早漏夫の義理両親は、結婚当初から私たちの結婚に反対していた。私が年上だから?元夫が童貞だったから?初めてのカノジョにまるで恋人を取られたかのように義理母は強烈に私を拒否した。それでも元夫が私と結婚すると決断したから結婚した。
でも私の実家にも挨拶に来てくれなかった義理両親。
非常に失礼だった。→10年後、4年前の不倫があった時に、再構築を誓った元夫にお願いしたことの一つは、この義理両親の不義理を謝罪し、私の実家に改めて挨拶に行くように、という事であったから、それは果たしてもらった。今となっては無駄だったけれど。
この義理両親、父親は無口でニコニコしているだけ。母親は自営業、これが強烈な人であった。子供ができる前は実家に年に数回顔をだすたびに、私の存在を無視、目を一切見ず、「さ、さ、ちなつさん、これ食べて~」といって一切私と目を合わせなかった。もてなしているふりをして私は冷遇された。話題はいつも義理母が仕切り、私が口をはさめない近所の人の話題や、自分の自慢話ばかり、頑張って話題に口を挟めば、すぐに話題を変えられた。手土産で持参した手作りのお菓子は、まるで見えないもののようにいつまでも居間に放置された。
私自身のことを一切聞かれたことは無い。好きな食べ物、などたった一つのことさえも。興味がなかった=拒否していたから。
私は何一つ、悪いことをしていないのに。
10代の姪っ子に学校の様子を尋ね、色々話を聞いて癒されていると、わざと会話を中断して来る、歪んだ自己愛の強い、強烈な小太り婆。金周りがそこいらの主婦とは違うのは分かった。「愛する人を生んでくれたひと」とどんなに考えても、私の存在を全否定する態度。立ち振る舞いが下品だ、と結論付けた。
さて、元夫は、どう私を守ってくれていたのか????
当時は、「メールで文句を言った」など、ちゃんとしたよ、もうしばらく行かなくていいから、等言っていたので、そうか、ちゃんと言ってくれたんだ、と思っていた。
が、今回、友人に言われた一言。
「ちゃんと、ちなつの目の前で、『その態度を改めろ』って注意してくれたことなかったの?」
ハッとした。
そんなこと、してくれたことなかった。
気の小さい元夫は、自分の親にさえ面と向かって文句を私のために言ってくれたことは無い、いつだって「メールで、」「電話で」文句言っといた、だった。
こんな義理両親だから、今回早漏不倫息子のしでかした事態も、(100%ちなつが僕にモラハラするから耐えられなくなって別居した)と虚偽を伝えている。ちゃんと話し合って出てきた、とでも言っているだろう。糞不倫元夫は。
一切何も言ってこない。言ってくるはずなどないことは、初めからわかっていた。
言ってきても、私に文句を言うだろう。
ただ、調停中には不倫元夫から『義理両親がみいなとあいこに会いたがっている』『じいじ、ばあばに会わせたい』と聞いていた。
私は、12年にわたって私の尊厳を踏みにじって苦しめてきた義理両親、結婚時の不義理、こいつらのクズ息子=元夫にめちゃくちゃにされた人生、を思うと、断固拒否しつづけた。
調停離婚調書には、 『義理両親に決して会わせない』とは明記できなかったが。
さて、この元義理両親、特に元義理母、私を無視しておきながら、みいなが生まれたとたん、態度を180度一変させ、「ちなつさん、ちなつさん」といって、私たちの新居に足しげく通うようになった。一度たりとも遊びに来たことなどなかったのに!!
みいなとあいこにはよくしてもらった、それなりに…しかし、二人が小学生になり、ものがわかるようになると、二人ともばあばの一方的な態度に、嫌気を覚えていた。
「あのね、学校でね、…」と二人が話しても、それについては一切無視。「公文でね、オブジェ貰ったんだ」これも「ふーん」もなく、無視。話題をさっと変え、「そういえば、K里(内孫の姪っ子)なんてね、こないだ学校でねー」と違う話を始める。みいなとあいこの話を一切受け止めないのだ。
これにはさすがにみいなとあいこも、ばあばが普通の大人とは「嫌な意味で」違うことをわかりはじめていた。
自分はただ、孫を侍らせて、町を歩きたいだけ。
みいなとあいこが私を介さず義理母とコミュニケーションがとれるようになると、私はまた出産前と同じように「存在を無視」され始めた。もう不要、といわんばかりに。
そのころには、無口な義理父は若年性アルツハイマー型認知症を発症し、話しかけても会話にならなくなった。高校生の姪っ子と話していても、デブ元義理母にテーブル越しに邪魔をされた。
この結婚が失敗であったことは、結婚前からヒントがあった。
私はそれに気づけないでいた。
醜男の息子を溺愛する心醜い義理母。
公開-早漏不倫「元」夫の置手紙
人生最悪の日から約10カ月。数回目を通した後、弁護士にオリジナルを預けている早漏夫のみいなとあいこへの置手紙。
当初は、涙なくして読めなかったっけ・・・
数か月ぶりに資料としてPDFとなっているものを公開のために読んだ。
「なにこれ?何が言いたいの?」
このセリフは、I弁護士が目を通すたびにいうセリフと同じだった。
改めて冷静になった私の頭では、この文章から読み取れるものは
「愛する娘たちと離れ離れになる悲壮感」は全くなく、
「パパは君たちを愛しているよ。それはほんとだから!じゃーね!」
と終始ハイテンション。
そのテンションは、「これから自由だ、万歳!ワクワク!ということで、君たち、パパは女と誰にもじゃまされず暮らすから、ばいばーい!」
と言っているようなものだ。
「パパとママは何回もお話したんだけれど・・・」→私が持ちかけた話し合い。早漏夫は、「ちなつへの気持ちがわからない」としか言っていない。数か月にわたってひそかに蒸発を企てていた。「一緒に住めない、別居したい」なんて、なんの相談もなかった。
逃げただけ。蒸発しただけ。
よく見れば、あとに書いたであろうあいこあての手紙は、だんだん字が乱雑に。
急いで書いて、「もう、早くいかなきゃ、楽しみで仕方ないぜ♬」と字が語っている。
早漏不倫夫は、己の不倫欲望(=夫・父親の責務を捨て、自由になる)を満たすためにこの子たちを捨て、私を「愛着障害」だと責め、モラハラして出て行った。
子供のいる世の中の人に聞きたい。
『あなたは、どんな心理状態になったら、こんな殴り書きの置手紙をだけで、「愛している」という子供たちに何も語らず去ることが出来るのですか?』
私は今さら、早漏夫の気持ちが知りたいわけじゃない。
私が知りたいのは、
「こんな悪魔のような仕打ちをする人が、世の中には存在するのですか?」
ということだ。魔が差したのか?それとも、元からこんな人だったのか?
もとから家族など愛してはいなかったのか?12年間家族ごっこをしていただけ?
それとも、既婚男 or 女なら、誰でも「魔が差せば」こんな気持ちになることがあるとでも??
いや、世の中、ゲスな人間もいるということ、そんな人間を夫として選んでしまったのは私に見る目がなかったのだろう。
この手紙を、捨てたい。でも、保管しておきたいとも思っている。
保管する理由はなにか?みいなとあいこが成人したとき、改めて読ませるため・・・
果たしてこれが正しいのかどうか、わからない。ひどいことをした父親と分かっていながら憎めない複雑な娘たちの心をさらに傷つけることになるのかもしれない。
その時、「読み返したいか?」と聞いてから見せることにしよう。これから数年間、彼女らなりに、様々なシーンで、複雑な心境を自分で消化しながら心の平穏を保っていくであろう。成長し、その消化できた心には、再び傷ついた事実を思い起こさせるこの証拠は、心のパンドラの箱を開けることになるかもしれない。
憎い手紙。反吐が出る手紙。
妄想だが、奴が死んだら、霊前で読み上げてやりたい。
ま、そんな必要はあるまい。因果応報。
これから戦う方へ
早漏不倫元夫との決着がついた今、参考までにこれまでかかった費用を書き出してみる。今後、同じように絶望の中でも、戦おうとする人たちのために、参考になればいいと思う。勝ち目は誰にもわからない、その割合によっては、私とは全く違う結果になるだろう。弁護士事務所によっては私より低額または高額なところもあるようだ。
以下すべて税抜き
- 3年前の不倫女Yに最初に出した、内容証明、弁護士依頼費用 10万
- 突如蒸発した早漏元夫を相手方とした「夫婦関係調整(円満)」「婚姻費用」の調停弁護士費用 30万+実費2万
- 上記を着手する前の法律相談料 1万
- 不倫女Yを相手取った不法行為に基づく損害賠償請求費用 30万+実費2万
- 4の和解成功報酬 10万
- 2の元夫との調停離婚成立成功報酬 40万(離婚、慰謝料、財産分与、子の面会)
5と6の50万円は、5の不倫女Yから勝ち取った「解決金」から清算したが、
裁判中は60万以上もつぎ込む必要があり、いずれ勝ち目はあるとわかってはいても、出ていくお金は苦しかった。同時に、お盆の家賃の安い部屋への引っ越しのための新居費用、広島への引っ越し費用と新居費用、移動費(約90万)…「なんでこんなお金を私が負担しなければならないのか?早漏夫が、あの気の弱い弱虫早漏不倫夫がきちんと話しあいの上、出ていけばこのようにはならなかったのに…」と思うと、よけい悔しかったのは言うまでもない。
減っていく預金への不安。
でも、損をしても、納得いくまでやろう、と決めていた。
これでもし、調停成立せず、訴訟にしていたら、弁護士費用は+30万と言われていた。
慰謝料でマイナスにはならないが、そのお金で傷ついた心や結婚生活の無駄な12年間が清算されるわけではない、でも、落とし前はつけさせた、と思っている。
弁護士が何度も言っていた。『いでぐちさんが納得いく形が一番です。』
結果として、私は妥協も少なく、金額と離婚条件については、納得して離婚した。
「離婚」は避けたかった。「家族」という形を守りたかった、その亡霊はまだ私の心にはいるけれど。