告白
10月の3連休がやってきた。
今年はあいこの七五三。毎回、お参りと、写真館での記念撮影をしていた我が家。
3人家族になっても、変わらず同じようにしよう、と、近所の神社の予約をした。
写真館は、あいにくどこに電話をしても、+ヘア、メイク料をチャージされるので、広島に帰ってから改めて写真館に行くことにした。
連休の中日は、キンモクセイが香る爽やかな秋晴れとなった。
おめでとう、あいこ。みいなの時は、「つぎはあいこの七五三があるから」なんて思っていたのが2年前・・・。この七五三が終わったら、もう成人式までお祝い事はないんだな、と思うと寂しいような。
その神社の近所に住む、みいなが生後間もなくからの付き合いの友達夫婦の自宅を、お参り帰りに訪ねた。
GWに一緒に家族ぐるみでハイキングに行ったのが最後だった、それ以降、ママから何度か、連絡を貰っていたが、私は誰にも会うことができず、その訳も話せず、のらりくらりと会う予定を立てずにいた。
七五三の予定を決めた数日後、ママから連絡が来ていた。「そろそろ集まりたいね」
私は決心した。
受け止めてもらえるかわからない、あまりにも重く、逆に苦しめてしまうかもしれない。でも、家族ぐるみで付き合いが長い彼ら、ママパパ友としては一番長い。広島在住中も子供服のお古を送ってくれるなど気にかけてくれ、I夫婦の一人娘の七五三には広島の厳島神社まで来てくれたのだ。
I夫婦に事情を話そう。
広島の数名の仲良し家族には、LINEで何が起こったか話してある。だって彼らは私たち家族にとって、楽しい仲間、夫婦としてやり直すにあたってとても大切なかかわりを持ってくれた仲間、東京へ引っ越すとき、壮行会までしてくれた仲間だったから・・・
でも私は東京の、この近所の友達に、誰一人、事情を話すことが出来なかった。このまま、誰にも言わず、ひっそりと広島に転居するつもりだった。
家族ぐるみでいろんな話をしてきたI夫婦。
あいこの七五三の着物を着替え、お茶をしているとき、切り出した。
「聞いてほしいんだけど・・・パパが出て行った。」
考えてみれば、電話では親友に話してはいたが、面と向かって、人にこのことを話すのは初めてだった。動悸がする。
I夫婦の反応は、「衝撃」だった。
ママは私の悲しみを想像し涙してくれ、パパは怒りで震えていた。
パパに尋ねた。
「同じ父親として、どう思うか?」
「・・・信じられない・・・どんな事情があるにせよ、こんな風に逃げるなんて・・・もう自分勝手すぎて信じられない・・・ちなつさんが怖い?それが理由?そんなの、端から聞いても、『それは本当の理由じゃないだろう』ってわかる。」
パパは続けた。
「広島で再会したとき、広島にはいい仕事がない、とか、転職理由とか聞いたけど、なんていうのかな、その「転職理由」に「危うさ」を感じていたんだ・・・。理由がちゃんとしていないっていうか、「自分がその仕事に合わせていく」んじゃなくて、ずっと「会社が自分のしたいことに合わせてくれる」そんな会社を求めているんだな、って。そんな都合のいいこと無いのに。」
Iパパの言うとおりだ。
どの会社に転職しても、1年足らずで不満、「年収アップを目指す」とか、ていの良いことを言い転職を続けていた。どこにっても、不満ばかりで転職を繰り返す。「俺は海外大卒、世界を相手に仕事をするんだ」というプライドばかり高い見栄っ張り。
家族の大黒柱、父親としての自覚に、この夫の仕事に対する態度から「危うさ」を感じ取っていた。
I夫婦は、ランチだけで帰る予定だった私たちを夕食までごちそうしてくれた。
迷惑だったかもしれない、彼らだってつらいことがあるはず。話すことで、嫌な思いをさせてしまったことは否定できない。それでも、face to faceで私を受け止め、これからの未来が少しでも輝かしいものになるよう願ってくれている。
帰り道、あいこが言った。
「ママ良かったね、東京にも味方ができたね♬」
七五三を済ませたあいこは7歳、小学一年生。こんな幼き心に2017年という年は「傷つき」と同時に「思いやる心」をも与えた。
感謝、ありがとう、I夫婦。
どうか、I夫婦はいつまでも仲良く。私は二人の所に、これからも会いに行きたい。
3か月ぶりの面会交流と久しい涙
2か月も待った第一回調停。
円満調停、婚姻費増額調停、子の面会交流調停
3つの論点の中で、婚費と面会についてが急を要すると判断され、論点となった。
しかし夫は婚費の根本となる月収を証明するものを、わざと昨年度、広島にいたときの「給料が下がっても広島に骨をうずめる」とうそぶいた会社の、年収が低い源泉徴収票しか出してこなかった。今と年収が300万も違うのに!
何度も給料をごまかし、今年2度のボーナスも隠していたんだ、そのくらいの姑息な手は想定内だった。
婚費については夫の証明が不足ということで持ち越しとなり、結局決まったのはみいなとあいことの面会交流の日程だけだった。
某日、10時から15時の5時間。
みいなとあいこはとても楽しみにしていた。
数日前から、「もうすぐパパに会える。」とワクワクしてた。
裁判所のガイドラインで、「笑顔で送り出すように」とあったので、努めていたが、
前日から、ここのところ思い返してもいなかった『私の結婚生活』をリアルに思い出し、心は沈み込んでいた。子供に恵まれたからこそ、家族でこの子達を育てていくんだ、という思いで、夫婦の危機を乗り越えてきたんだけどな・・・尽くしてきたんだけどな・・・無邪気にパパに会える喜びを表す娘たちを見て、パパとママがそろった家族、パパとつい数か月前まで、週末は出かけて、楽しい時を過ごしていたのに、なぜ今『パパに会える!』と喜ぶのか・・・?と、『パパ』を放棄した夫を慕う娘たちに対し、複雑な気持ちになった。こどもたちだって、パパと以前のように過ごしたいのに・・・。こんな当たり前の親子の関係を、突然別居というかたちで断ち切り、離婚を求めている夫が憎らしくて、まるで出て行った後の数週間の時の気持ちが戻ってきたようになり、笑顔が消え、涙ぐんだ。鎮静剤を飲んでもおさまらないひどい頭痛が、私の気持ちを察したかのように同時に襲った。
秋晴れがきれいな某日、みいなとあいこは、私に時折気を使いながらも、はじける笑顔で面会に出かけて行った。
私は買い物もかねて、秋晴れの気持ちの良い外を買いものを兼ねて散歩した。
そうでもなければ、昨夜の思いを引きずったまま、もやもやしてしまいそうだったから。
それでも、買った雑誌にふと、「2005年」をいう文字を見つけ、「私たちが結婚した年だな。」と心に引っかかってしまい、そこからまた「なぜ?」「子どもたちをパパとママがそろった家庭で幸せに育てたかっただけだったのに・・・」「夫と、一生添い遂げるつもりで結婚したんだけどな。」との気持ちが芋づる式のように出てきて、私はみいなとあいこが外出している間苦しんだ。これは、執着心なのだろうか?数か月前の、直後の夫への執着ではなく、「私の結婚」への執着なのだろう。夫への気持ちはとうに整理がついていたが、自分が守りたかった「結婚生活」については、自分の目指していたゴールだけが虚しくきらきらと心に残っているのだ。
約束の時間通りに帰ってきたみいなとあいこは、私の予想通り、上野動物園につれていってもらっていた。
「楽しかった」という二人。でも、どんな話をしたのか尋ねても、「忘れた」という。
私に気を使っているのだ。
様子を話したがらない二人と、私の間には、壁ができてしまっていた。
しばらく話をしたあと、みいなが言った。
「みいな、やっぱりパパと住みたい。」
これは、考えようによっては、
①ママとではなく、パパと暮らしたい。
②パパに家に戻ってきてほしい。
①だととらえ、動揺した私。「それはどういうこと?ママと離れてもいいから、パパと暮らしたいってこと?パパ、あなたたちを置いて勝手に出て行ったのに?」
これは、「パパとママ、どっちが好き?」と究極の選択を迫っているようなものだった。離婚時に、「どっちと暮らしたい?」と。
まだ7歳と8歳。素直にパパを愛する感情が溢れる年齢。ひどい目にあわされても、パパに会うと、愛がチャージされるのか。それはそれで、面会交流の意味がある。
子どもたちにこんな質問をするなんて・・・しまった、と思った。
「私も一緒に行きたかったな」とぽつりとみいなにこぼした。
これは、夫への執着ではなく、「結婚『家族』生活」への執着なのだ。
私はこれからシングルマザーとして、私の目指していた『家族』とは別の目標を立て、みいなとあいこを愛情たっぷりに、「新たな家族像」として歩んでいきたい。いや、そうすることが、夫との結婚生活の『亡霊』を断ち切る唯一の手段なのだ。
同時に、この面会交流が、子供たちを混乱させるのではないかと疑問を持ち始めた。
「パパ、帰ってきて」と伝えたみいな。
パパは、「うーん」とうなっていた、と。
調停で、「離婚の意志は固い」と言っていたのだから、「無理。パパ離婚したいから」と言えよ。
父親の愛情が引き続き注がれることは大切だ。
だけど、どんな理由があるにせよ(不倫が理由だとか、夫が言うように私が「怖い」からそうするしかなかったとか)、何の話し合いもせず、子供たちにも当日朝嘘をつき、置手紙だけで出て行ったパパは、きちんと話しあいをして離婚となった巷のパパとは違う。
みいなとあいこは、心が成長してくる10代に、自分の経験したパパの裏切りを、どう理解するだろうか。
それを想像すると、私は得も言われぬ悲しさに襲われる。できることなら、パパを憎む気持ちを無くしてあげたい。でも、娘たちが受けた悲しみと現実は、私は隠すことができない。
出て行った日の夕方、廊下から何も知らず、きゃっきゃと元気に帰宅してきたみいなとあいこ。部屋に一人、みいなとあいこ宛ての置手紙を隠すことも出来ず、ただ、これから悲しむ愛しい娘たちを悲しみから救うことができなかったあの時の、『悲しませたくないけれど、どうしようもない』無力感と同じ気持ちになった。
娘たちを人生最大に悲しませた夫は、自分の都合のいい時だけ「パパ面」してみいなとあいこに会う。
シングルファミリーの仲間たち
調停の頻度は月に1度。
それはそれは長―い時間。頭で理解できている、「もう離婚しかない」の思いに
心がだいぶついてこれるようになった9月末。
現状、そして気持ちはすでにシングルマザー。毎日広島へ帰ることを妄想し、
みいなとあいこと3人で、『広島に帰ったらねぇ~〇〇とキャンプとか~♬』
習い事はあそこに行こうとか、週末は何をしようかとか・・・想像だけが膨らんでいた。
広島生活の想像をより現実的に!その思いで、広島の「シングルマザーの仲間」を探すべく、出会ったのが、『ゆかいな仲間たち』だった。
メンバーは8人。
大学生の息子さんがいるマザー
5人の子持ちのマザー
小学生2人のファーザー
乳児を育てるマザー
小中学生2人のマザー
3人の子持ちファーザー
などなど・・・
現在東京にいる私は、皆にお目にかかったことがない。
時々、他愛もない話題でもりあがったり、新しいメンバーが増えて挨拶したり。
皆、修羅場を乗り越えた、3年目、4年目の先輩シングルたち。私は時々、友達に言えない自分の苦しい胸の内や、不安な気持ちをLINEに書き込んでは、励ましてもらっていた。
グループのみんなは、私の今いる次元をはるか超えた、まだ見ぬ感情的『自由』の世界にいることがわかった。
私はある日聞いてみた。
「皆さん、離婚して幸せですか・・・?」と。
シングルファーザーは
『保育園の支度とか、親同士の付き合い方とか何もわからないままスタートしたけれど、会社の理解もあり、生活にも慣れ、今は最高に幸せですよ!』
と。
『元夫を殺したいほど憎んだり、事業で失敗したり、「なんで私だけ?」と考えたけれど、生きている限り、元気なのが一番幸せだと今は思う。』
『ちなつさんも今は苦しいけれど、先では幸せだと思う日が必ずきますよ👍👍』
と、励ましてくれた。
まだ見ぬLINEグループのシングルファミリーに、慰めてもらい、その優しさに涙し、まだまだ不安定な気持ちを奮い立たせている。
早く、私もみんなを励ます立場に行きたい。
その時、私はこのブログを読み返して、『ちなつ、大丈夫だよ、今、最高に幸せだよ。』と、書き込むことを妄想している。
大丈夫、絶対に実現するから。
児童手当を私の口座に その④
私の住む〇区の『子ども未来課子育て給付係』
子どもを守りたい別居された母は、子ども手当受給資格がないという。名前も白々しい。
I弁護士の渾身の上申書と、早漏夫が娘たちに残していった「置手紙」のコピーを付けて、申請締め切り直前に送付した。
〇区給付係から、I弁護士に電話があった。
あれほどの資料を提出しながら、
明らかに母親である私に監護権があり、夫(父親)は子供の監護を遺棄しているにもかかわらず
なお、「母親が離婚の意志を父親に示している」ことが、認定の基準だ、と固執していた。
I弁護士は、相当担当者とやりあってくれた。「おたくの顧問弁護士に聞いてみてくださいよ!」と喧嘩してくれた。
一日たった夕方、連絡が入った。
10月分より、いでぐちちなつさんを、受給者認定します。
とのこと。
帰宅途中の地下鉄の中で、泣いた。
3 か月にわたり、いろんなことで毎日涙したこと。
生活をしていくため、自分で引っ越しをし、家賃を一年分前払いし、生活費を送ってこない嫌がらせに涙し、送ってきたと思ったら、建て替えた光熱費だ、と不正請求されたこと。
自分の不倫を隠すために、私を「愛着障害」だ、とモラハラで責め続けたこと。
夫が突如家族を捨てて出て行った?!・・・ どんなに苦しくても、誰にも話せない、惨めな出来事。
それでも、雇った弁護士とはいえ、私たちの生活のために、一生懸命戦ってくれたI弁護士。
職場で、融通をきかせてくれる社長。
職場で、10年前に夫の不倫でシングルマザーとなった同年代の同僚女性。
涙は、『感謝の涙』となって、溢れた。
私はこれからもっと大きなものを勝ち取るために戦うのだ。
この子ども手当の受給者認定は・・・当然の権利。
なのに、こんなに行政に苦しめられるなんて思いもしなかった。
やっと一つクリアした。
裁判を起こす
早漏夫との’円満’調停期日を控えたある日、最後の打ち合わせにI弁護士を訪ねた。
もう、いろんなことが複雑に絡み合っている案件になってしまった。
①私の住む〇区は、子供手当の振込口座変更につき、非人道的な対応をしていることが判明、なんとか私に子供手当を受け取る資格が認定されるよう、I弁護士渾身の上申書を書いてくれた。
②3年前の不倫女Yが不倫を認めた稚拙な「謝罪文」。
この案件は、世話になっていた広島の弁護士から、I弁護士に引き継がれた。
この不倫女Yへの対応につき、弁護士同士で検討した結果、今後の私の離婚裁判と絡めると、結論が遅くなることを鑑み、このYを相手取り、別で裁判を起こすことになった。
「不貞行為に基づく損害賠償請求事件」
裁判...私も「ドキッ」とする言葉だ。
不倫女Yは、今『婚約中』♡
新たな弁護士費用として、約30万必要だ。
調停と会わせてすでに60万。もう、今の不倫を暴く調査費用も惜しい。
でも、ぜったい取り返す!
その後、ベテランの女性T弁護士に交代し、不倫発覚の経緯をヒアリング。
今回は、不倫女Yが事実を認めているので「事実かどうか」は争っていない。
「私がどれだけ傷ついたか」が争点だ。
3年前の出来事だが、その日【7月2日】を思い出し、発覚した経緯、夫とのやり取りを話し始めた。
今だって苦しいが、3年前のその日の夫とのやり取りの会話や、しぐさを説明しているうちに、そのころの苦しみ、その時の感情がよみがえってきて、私の鼓動は早くなり、胸が苦しくなった・・・・
3年前、夫に言われ続けたモラハラのセリフの数々。
「おれは子供を連れて、近々東京へ帰る。ちなつもその心づもりでいろ」
と言われ、頭が真っ白になったこと。
愛しい娘と離れ離れになるなんて、片腕をもがれるより苦しいこと。
泣きながら、「お願いだから子供は置いていって…私はもう年齢的に子供が産めない…」と訴えた夜…
不倫に関するヒアリングは、T弁護士が訴状を書くのに必要な作業だ。
「私がどれだけ傷ついたか」を話すことは…
つらい作業だ。
不倫発覚前の、人格否定(モラハラ)と、事実発覚のショックと、その後のフラッシュバック…夫婦で2年以上通ったカウンセリング…
ここ半年~6月30日に夫が私たちを捨てて出て行って以降の辛さは相当だが、
3年前だって、私、とてもつらくて、可哀相だったな・・・と改めて思った。
この不倫以外にも、何度も夫には給料をごまかされ、嘘をつかれ、わがままを聞いてきたな。。。すべては、せっかく結婚したんだもの、夫とは一生添い遂げたい・・・子供たちがパパとママがそろった家庭で育ってほしかったから・・・
私が感情的で、時にイライラして気を遣わせたとか、子供をしかり飛ばしていたとか、そりゃ私は完ぺきではなかったよ、広島に一緒に移住してもらった、でも、夫のしたことと・・・・「おあいこ」だろうか。
私は十分努力してきた。
家族でいたかったから。
ちなつ、もう十分だよ、
出て行ってくれてよかったよ。
私には命がある!心の変化‐ 出発期
夏が終わり、朝晩に秋の風を感じる季節のころ、第一回調停をまだかまだか、と緊張して待っていた。
早く終わらせて、広島に帰りたい。
毎晩どこかの神へ祈り、本当に祈り、外を歩けば広島を歩いていると妄想し、広島の賃貸マンションサイトを毎晩見ては、不動産屋とやり取りし・・・イメージをどんどん膨らませて、そこへむかって心をワクワクさせていた。
その時の私の心のよりどころは、力強い味方の弁護士先生、T人事部長の言葉、二人の愛しい娘たち、そして、今年も快進撃を続ける
広島カープだった。
夫が嫌がらせで生活費を送ってこなかったが、私は娘たちが習いたいと言っていた近所の短期のスイミングスクールに申し込んだ。
それでも、予定していなかった学校の諸費やもろもろ、出ていくものも多く、本音では焦っていた。
子供たちとの合言葉は、『節約』
こんな目にあわされて、悔しくて悔しくて、夫とは意地でも別れない!婚姻費用を貰い続け、何年でも別居生活をしてやるのが、あいつが一番嫌なことだろう、と考えていた。離婚なんてしたら、思うツボだと。
でも、もう、一日でも早く縁を切りたいと思い始めた。
離婚カウンセラーの岡野あつこさんによると
第4段階 出発期
未練や後悔は完全に消えたわけではないが、過去を振り返ってばかりの日々から脱却。元気を取り戻し未来に目を向けることができるようになる。具体的な新しい人生について前向きに考えられるようになり、リセットすることで今よりももっと明るい幸せな未来が待っているはずといった希望さえ持てるようになる。
私は確実にこの期に入ってきた。
私の今後の人生への妄想は、具体的で、希望に満ちていた。
小学校はO小学校、広島では珍しく、私服だな、みいなのバレエとダンスはここに通おう、あいこの将棋はここ、バツイチのグループに入ろう、みいなが今年楽しんでいる消防少年団はないから、ガールスカウトに入ろう、等…そして、5年以内には、中古マンションをこの辺りに買おう…想像は具体的で楽しい。
もう悔しさで泣くことは無くなったが、あるきっかけで知った歌に心奪われた。
前から好きだった椎名林檎
奪われるもの、壊されるもの、買えるものは形あるもの。私たちが価値があると思いこんでいるもの、そう思い込まされているもの。それらに価値はない。くだらないもの。形あるものに価値はない。奪われても壊されても嘆く必要はない。くれてやれ。マンションの窓から外へ全部放り投げてしまえ。命がすべて。生きていること、それで十分。
私は夫にすべてを奪われて、こうして東京に連れてこられて、身ぐるみはがされた状態で娘たちと放り出された。
だから悔しい、許せない、ここにさえ来なければ、来なければ…
でも、この曲を聴いてハッとした。そう、
私には命がある。まだ生きている。
私から何もかも奪った夫、不倫をし、私をモラハラで陥れ、生活費も入れずいやがらせをし、「子供に会いたい」という。
醜男だし、早漏だし、嘘つきだし、外面だけよくて情がないし。
出て行ってくれてよかった。
どこかの女にくれてやる。
熨斗を付けて、くれてやる。
その代わり、かわいそうなみいなとあいこの将来のために、私は戦うよ。
最強のダブル弁護士コンビと、10年後を見据えて戦うよ。
違う意味で、私はこの曲を聞くたび涙した。
同時にいろんな偶然を思い出し、見えないどこかの神に感謝した。
- 父の遺産相続の金額を夫に伝えようとした夜、どうしても伝える気になれなかったこと、
- 夫の様子が変で、時効が迫る3年前の不倫女Yに慰謝料請求したこと。結果、大きな証拠を得た。
- 人生最悪の日、偶然にも早く家に帰り、夫の逃亡と鉢合わせしたこと。 『よく見なさい、これがあなたが夫としていた人の本性だよ、』と。
私に第六感はない。
この偶然を認めることで、私は自分に起きた出来事を意味のあるものとして受け入れ始めた。こんな思いしたくない、ただ、夫婦仲良くしたかった、それだけ、家族を守りたかった、私にも欠点はあったけれど、私は尽くした。それで十分。
だから、このドラマのようなon goingのつらい出来事を乗り越えたら、きっと幸せがまっているはず。
これが、私の今の楽しい妄想につながっている。
絶対に実現させる。
児童手当を私の口座に その③ー見捨てる行政
月1万円の児童手当。
これの受取を私の口座にするため、夫が出て行ってすぐ行政に掛け合った。
私の住む役場の条件はこうだ。
①子供の健康保険証を母の元につける。
②別居中の父親が、「監護権放棄の申請」を出す。
①は、会社に事実を言えないがゆえに夫が手続きを途中で放棄した。
※父母、収入の多いほうに子供の健康保険が紐づくという一般的なルールがある。
そのため、私は夫の会社の人事の協力を得て、例外処置として、①は完了した。
②こちらも夫は①と同じく、途中で手続きを止めたため、申請をしてくれていない。
ならどうするか?
役場はこう言った。
離婚を前提に協議しているとわかる書類の提出。
つまり、今申し立てている「円満調停」ではダメ。
しかも、私が夫に対し、「離婚の意思を伝えていること」
を証明しなければならない。
これから円満調停の初回を迎えるというのに、「離婚の意思」は伝えられるはずもない。
こちらも作戦というものがある。
モラハラし私を悪者に陥れ
不倫の事実を隠し
一方的に出て行った早漏夫と離婚しか考えられない。
でも、今は伝える段階ではない。
でもそれだと、私には受給資格がない。
なぜ?
心を夫に八つ裂きにされながらも、捨てられた子供たちを必死に守ろうとする母は
児童手当の受給資格がない。
話し合いもせず、父親の責任を一方的に放棄して逃げた夫には、いまだに児童手当の受給資格がある。
なぜ?
身も心もズタズタにされ、行政も必死に生きる私と娘たちを助けてはくれない。
どんな状況であれ。
逃げた夫の離婚の意思で十分ではないか。
離婚したいから逃げたんだろう。子供の面倒も見たくないから逃げたんだ。
それなのに、行政は「妻の離婚の意思」を明らかにしろという。
家族円満の再構築を願う捨てられた妻が離婚の意思を明らかにしない限り
受給者資格は得られない。
絶対にオカシイ。
誰のための児童手当?
逃げた夫はこれからも児童手当を受け取るのだ。