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不倫夫・突然の別居・地獄の底から這いあがる!

己の不倫を隠すためモラハラで私を洗脳し、突如別居した夫。残された娘と3人で、新しい自分へ成長するまでを綴ります。

7歳になったあいこを置いて…

子供の誕生日。それは親ならだれもが特別な気持ちになる日。あいこが生まれた2010年6月、みいなと同じく3週間早く陣痛が始まって一晩中苦しみ、翌朝促進剤を使った。上手に生まれてきたあいこ。赤紫色の生まれたてのあいこを昨日のことのように思い出す。あいこはもうすぐ9歳。とても大切な日なのに、自分で思いたくもないのに、このあいこの6月の誕生日が近づくと、心が平静でいられなくなってしまった。

2年前のあいこの誕生日、私達は4人家族だった。

すでに早漏元夫の人格否定攻撃は頻度を増し、何かにつけて突っかかて来ていた。10年前の会話を引っ張り出して「おれはあれが嫌だった」や、週末の出先でさえ、店先で、バスの中で、私の言葉尻をとらえ、「おまえはいつもそうだから嫌なんだよ!!」と牙を剥くような表情で子供たちの前でも私に喧嘩を売った。

しまいに渡された「愛着障害」の本。私は愛着障害だと言われ、反論できない悲しい過去を持つ私は自分を責め初め、どんどん早漏元夫の卑劣な罠にはまっていった。

6月、あいこの誕生日、4人家族でお祝いした。プレゼントを受け取り満面の笑みの7歳のあいこ。Happy Birthdayソングを歌うビデオをとっていた元夫を私ははっきりと覚えている。

その2週間後、早漏不倫元夫は突如私達の前から消えた。

だからこの6月が、私にとって、いや、私達家族にとって、なんとも表現しがたい時期になった。あいこの誕生日を祝いたいのに、もう純粋な気持ちで祝えなくなった。

あいこの大切な誕生日は、忌々しい醜元夫にされた人格否定と、突然蒸発されたことで一気に奈落の底に突き落とされた地獄の日々を耐え忍んだ気持ちと紐づいてしまった。

たった2年前、どんなに自分の気持ちに蓋をしたって、消せる記憶でもなく。

笑えるほどの月日は経っていない。

 

私は以前のように、純粋にあいこの誕生を思い出し、感動し、感謝したい、それだけに胸がいっぱいになる日、に戻したい。

 

そして、私たち家族を、私を苦しめ、貶め、離婚した後も、こうして私の大切な記憶でさえ汚す元夫を決して許すことはできない。

 

あいこ自身はどうだろうか?自分の7歳の誕生日の後、突如消えた父親。

 

私があいこの誕生日を心をかき乱されず祝える日はいつくるのだろうか。

 

 

 

〇イチ一周年記念

三月某日。私の人生がリセットされた日。生まれ変わった日。それは離婚した日。

 

リセット記念日。

 

一年前の自分を数日前から思い出していた。

たった一年前のこと。

 

自分で見つけたフルタイムの仕事。それがあったから地元に戻ってこれた。

引っ越し難民の一人として必死で業者を探し、40万円もかかった引越し。

転校は終業式まで伏せ、人目を避けるように、誰にも挨拶できず高速バスで東京を去った日。もう二度と足を踏み入れることは無い、と。

戻ってから新生活への準備、氏名の変更、子供たちの氏の変更等に奔走した日々。

忙しかったけれど、私の心は心機一転・・・でも本心はボロボロだった。

 

あれから一年。仕事を通じて再会した、人生の大先輩、あるマスコミの女性に言われた「ちなつさん、バツイチじゃないわよ、マルイチ 〇イチだからね!」に共感した。

そうか、私は私達を見下し、コケにし、傷つけたクズ男と離れることが出来たのだ。これは「〇」=正解、ではないか。

一年前と比べて、私は随分精神的に元気になっている。そう、再出発出来ている。

一年前に戸籍上も子供たちの未来を一手に背負った私、一年前より、覚悟が出来ている。10年後の大学費用の試算を始めたり、中古マンションを手に入れられないか実際探してみたり・・・

一年前4月から始めた仕事も、恵まれず、必死にしがみつきながら他を探した日、なんとか転職したもののやることがなくなり、また話が違う・・・と思ったとき起こった西日本豪雨で出勤できなくなった日々。それでもつかんだ前職を生かせる今の職場。

仕事の大変さはあるが、仕事に恵まれ、人に恵まれ、時には私との再会を喜ぶ人を避けるようにしながらも、小学校では執行部に入った。

リセットしたんだ、縁を大切にしよう。

嫌な出来事を思い出しても、その頃の気持ちと同じレベルに引き戻されることは無くなった。嫌な出来事は、いまでも嫌な思い出のままだ。

ショッピングモールで子供連れの家族を見ると、いたたまれなかった一年前の私。

今は、「親子ごっこしているけど、それは本心かな??明日は「家族」が壊れるかもしれないよ・・・」と、俯瞰で見ることが出来るようになった。これは穿った見方かもしれないが、誰にだって、「明日は何が起こるかわからない」のだ。

 

私は確実に、立ち直っている。まだ、途中だけれど。

 

一年以上前に書いた、願い事リストをチェックしてみた。

 

*慰謝料総額400万円以上勝ち取ること。⇒実現

*地元に戻ること。⇒実現

*子供たちと三人で仲良く暮らしていること。⇒実現

*前職のホテルに戻ること。⇒実現

*新しい友達を作ること。⇒実現

*中古マンションを買う事 ⇒検討中

*英検一級に合格すること ⇒・・・実現!

 

願いは叶っている!

それは、願ったこと、だから自分が動いたこと、自分が引き寄せたこと。

一番、または二番目に困難と思っていた英検一級に合格すること、については

本当にうれしく、号泣した。

 

〇イチとして、覚悟を決めた私は、この一年で、たくさんの願いを実現してきた。

〇イチ2周年、3周年には、完全に立ち直った、と言えるように進むだけ。このブログを始めたきっかけは、奈落の底にいた自分の立ち直る記録を付けるため。だから3周年をゴール設定して、ブログを続けていこう。

 

貰うべきか、不要だと突っぱねる?

年末に今年3回目の面会交流があった。

交流の日が来ると、私に気を遣ってか、嬉しさを抑えるみいなとあいこの姿を見るのもつらい。子供に必要な権利、でも、お前たちを地獄へ突き落とした本人は、それでもお前たちの父親。会いたいようだ。会うと、「楽しかった」と言って帰ってくる。

 

行ってらっしゃいと送り出したが、第3者を通じて、「面会中、元祖母に電話で話させないでくれ」と伝えていた。以前も、面会中に元祖母が電話口にいる携帯を、「はい」と渡され、電話口で話したと聞いていたからだ。

以前も述べたが、私はこの元義理母に空気のように扱われ続け、人としての存在そのものを否定され続けてきた。小さな自営業を営むその人は、元夫を溺愛していた。みいなとあいこが生まれた後は態度が180度変わり、私達の自宅に足しげく通い、旅行に誘うなど私を通じて孫たちに関わってきたが、孫たちが直接意思疎通できるようになると私をもとのように空気扱いした。そして、孫たちの「ねえねえ、聞いて・・・」の話は全てスルーし、同年代の内孫の自慢話をして、みいなとあいこの話さえも、すべてつぶしにかかるのだった。どういう人格と表現していいのかわからない、自分にしか興味がない人。

そんな元祖母と話す必要などない、みいなとあいこに、決して会わせない、と調停中からも伝えてきた。現に、遠方に越したいま、わざわざ会いにくることはない。それでも、電話で話すことさえも、嫌悪感しかない。

「みいなとあいこと話したい?嘘をつくな、お前はこの子達に興味がないはず。ただかいわいそうな行き別れた孫に目をかけてやっている自分に酔っているだけだ。」

2日間の面会交流を終え、みいなとあいこが持ち帰ったものの中に、元祖父母、元叔母、叔父、からのお年玉が入っていた。

 

本音は、「要らない」

99.9%の確率で、この贈り物は数年後自然消滅する。自分本位のあいつらが、自分の満足のために哀れみでくれたお年玉。飽きたら必ず終わる。いや、早漏元夫が再婚して新しい孫が出来たら当然終了だ。

だから、「要らない」

ネットでは、『そうはいっても、祖父母に変わりがないので、もらったら お礼の電話をさせている。』という人もいるようだ。それが常識だとも。

ごめん、私はそんなにできた人間じゃない。

それが「常識」なのはわかっているし、私はほかの知人にはお礼状やお礼の電話をする。離婚後の元義理との付き合い方は、婚姻期間どのような関係であったのか、どんな理由で離婚に至ったか、によるのではないだろうか。

私達を傷つけ、地獄へ突き落とした極悪非道な元夫の親に、お年玉やプレゼントをくれたからと言って、どういい感情をもてというのか?それでもみいなとあいこの祖父母であることに変わりがないというのか?元叔父、叔母も??どこまで?

自分の感情に正直でいよう。お礼は言わない、貰っても嬉しくない、でも、お金は子供たちがもらったものだから、貰っておく。今年で最後かもしれない。

「このお年玉はね、これが最後だと思うから。そのつもりでいなさい。」

とみいなとあいこに伝えるのが精いっぱいだった。

 

要らない。

私達に善意であっても関わるな。

それは善意ではなく、おまえたちのエゴであることくらい、見抜いているから。

 

 

うれし涙

今年の記録的な暑い夏は、あいこが生まれた年を思い出させるような暑さの夏だった。

あいこが生まれた年の夏は私が経験してきた夏の中で一番「暑い」と思った。

朝から晩まで、クーラー嫌いの私がつけっぱなしにしていたほどだ。

 

同じような猛暑は、その気がなくてもそのころを思い出し、その後のあいこの成長を楽しく思い起こしているうちに、一年前の「あの日」へつながった。そこで楽しい回想は地獄へと落ちて終わる。その繰り返しを何度かしているうちに、気分がふさぎ込むことが多くなった。

「なぜ?」「私が何の仕打ちをしたというのか?」「この出来事の意味は?」「みいなとあいこをなぜ傷つけるのか?」

新しいスタートを切ったはずの私、足を取られて前に進めない夏だった。

 

そんな夏が終わり、涼しくなってきたころ、地獄への回想をすることがだんだんと減っていった。

夏に入社した会社も3カ月がたち、だいぶ慣れてきた。「仕事が楽しい」と思えるようになった。子どもとの悩みも多いが忙しく、あわただしく、でも総じて平和な日々。住む場所がある、お金を使わずに遊ぶハイキングや散歩を楽しむ日々、毎晩食卓を囲む幸せなとき。とりあえず生活が出来ている。

 

ある日ふと思った。『好きな人が欲しいな』

 

この気持ちに一番驚いたのは私自身。次に湧いてきた感情は、「感動」=うれし涙 だった。

今でも信じられるものは「自分とお金」だけ、これは変化なし。

あれもほどにも苦しみ、傷つき、破壊された私の人格、人生、家族、そこからの苦しさからの反撃、戦い…金銭的負担…世間の人間関係の「底辺」と思われる経験をしてきた私が、よくぞ「好きな人が欲しい」と望めるまで回復したな、と。素直に、まっすぐに「恋」を望めるようになった自分の心に感激した。そして、泣いた。よく頑張ってきたね、誰かを好きになりたいと思えるほどに心が元気になってきたんだね。

私は自分で自分に感動して涙した。「ちなつ、頑張ったね・・・」

 

心が少しずつ健康になっていくのを私は感じ始めていた。

 

父親が居ないこと

帰広することが、去年の今頃はたった一つの希望の光だった。

帰って何が待っているわけでもなかった、仕事がある保証もなかった。

ただ、東京にいる意味はもはや、何一つなかった。

 

1年後の今年の夏休み、みいなが1年生の時から続けている、夏休み中、International schoolのsummer course に行かせること、を実行するため、過去2年連続行かせていた

International schoolへ連絡をした。

 

去年の話だ。

去年は、1年生になったばかりのあいこも一緒に二人そろって行かせるため、文京区の学校を探し、summer courseに申し込んだ。1週間と2週間コースがあり、値段も高いため、迷い、早漏元夫になんどか意見を求めたけれど、ほとんど無関心だったな。

それもそうだ、蒸発する直前だった。

私はそんなこと知る由もなく、2週間のコースを二人分申し込み、計14万円支払った。

 

そして元夫は私達を捨てて消えた。

 

私は生活が不安になり、引っ越しをしたり、学童を辞めたり、出来る限りの節約対策をした。そして、このsummer courseをキャンセルすべく、学校に連絡したが、一切キャンセルに応じないという。地獄に突き落とされたショックでパニック状態であった私は、二人分、2週間分の計14万円を取り戻すべく、恥をさらして、夫が消えて急に生活が苦しくなったこと、だからキャンセルしたい、と伝えた。

それでも、回答はNOだった。

しかたなく、二人を通わせた。みいなとあいこは、2週間のコースは楽しく、有意義なものであったが、元夫が消えることを知っていれば、当然14万も払ってサマーコースに行かせることはしていなかった。

 

そんな一年前の恨めしい出来事を思い出しながら、international schoolに連絡をすると、すでに学校は閉鎖しており、先生のみが自宅に来てレッスン可能だと回答してくれた。

2日間、3時間ずつ自宅に来てもらい、英会話レッスンをお願いした。

 

2日目が終わって礼を言って下まで送った際、J先生は私に聞いた。

 

『あの子たちには父親はいるのかい?』

 

レッスンの様子は扉が閉まっていたので分からなかったが、どうやら、みいながべたべたとJ先生に甘えていたようだった。

 

「ああ、またやったのか。」

 

あの人生最悪の出来事の後から、みいなはパパと年が近い男性に、やたらべたべたとまとわりつくようになった。明らかに、人肌恋しいような、見る人がみれば、

「ああ、そういう事情で…」と言われかねないような。

案の定、言い当てられてしまった。

 

様々な子供たちに接してきたJ先生だからこそ、様子が違うことくらいお見通しなんだ。

 

私は、みいなの行動に対する親としての気恥ずかしさと、無意識でやるみいなへの同情と、じゃあ私がどうすればよかったのか、というやりきれない思いで苦しくなった。

何もできない。

 

こんな目にみいなを合わせたのは誰だ?

 

夫婦別姓の世の中に

今回私の人生におけるもっとも過酷であった一連の出来事で学んだことは、

「人生、何が起こるかわからない。」

諸行無常、とはこのこと、一生の愛を誓ったカップルは多く離婚し、不幸はいつ降ってくるかわからない。災害だってそうだ。どんなに我慢し、守ってきたとしても、相手があることならばなおさら。

 

そして、「誰も信用しない」

 

もう一つ、この体験で改めて声を大にして言いたいこと。

 

夫婦別姓を認めるべき

 

結婚する時だって手続きが大変だったけれど、離婚時は、子供の名義変更もあり、それはそれは大変以上だった。

 

まずは前の戸籍から外れた除籍の証明を遠隔地のため郵送で請求、

それをもって家庭裁判所へ子どもの氏の変更申し立てをし、

認められたらそれをもって再度区役所へ行き、子どもの氏のを住民票上で変え、

住民票の写しを持って免許を変更し、

免許証をもってそれぞれの金融機関へ出向き名義変更し、

各種生命保険の名義を電話で伝え、書面を出し、

死亡保険金受取人を娘にし、

株証券の名義変更をし、

公共料金各所に名義変更を伝え、→ここで何度か、「変わった理由は?」ときかれ、不愉快だった。

携帯やネット名義を変え、

通販やすべての取引先の登録名を変更し

子どもたちの持ち物すべての氏を変え

縫いなおしたり、縫いつけたり。

 

なぜ女性だけがこんなtime consuming な作業をしなければならないのか?

時には変更の理由を聞かれ、

 

元夫の氏をそのまま使う人がいるけれど、それでは解決にならない。

私のように、忌々しい氏を二度と名乗りたくないと思うひとだっている。

 

数年前、夫婦別姓法案が議論されたときに、反対した議員たちの理論はこうだった。

「同じ氏でないと、家族の一体感がなくなる。」

 

はあ??同じ氏でも、平気で家族を捨てるゲスもいるのに?何が一体感だぁ?

膨大な氏変更の手続きが終了して疲れ果てたところで、社会に出れば、氏が変わったことで回りは離婚したことがすぐにわかる。

知られたくないのに。精神的にさらに気を揉むこともあり、ダメージがある。

 

先進国の中、いや、新興国を含めても、別姓を認めていないのは日本だけだ。

「離婚しなければ問題ない事」という理屈は、この夫婦別姓導入議論とは違う話だ。

人生何があるかわからないのだ。離婚しようがしまいが、夫婦別姓を認めるべきだ。

 

一日も早く、夫婦別姓が選べる世の中になってほしい。みいなとあいこが結婚するころには実現しているように切に願う。

 

めぐり合わせ

地獄に突き落とされてから1年。

あの時は、一年後の事なんて何も考えられなかった。

「なぜ?」「どうしてこんな卑怯なことを?」「この12年間の結婚生活の意味は?」

「あんなにかわいがっていたと思っていた子供たちを見捨てて?」

憎い、苦しい、恨めしい、嫉妬、怒り、絶望、他にどんな形容詞があれば足りるだろう。

この世のあらとあらゆるネガティブな感情を抱え込んで、毎日仕事へ出かけ、子供たちの世話をし、弁護士と打ち合わせをし、たくさんのお金を払い、隠れるように暮らし…長い長い闘い…

 

ほぼ私の望み通りに離婚が成立してから5か月。

願っていた目標慰謝料金額を取った。(昔の不倫女Yの解決金を含む)

望み通り、仕事を決め、広島に戻ってきた

子どもたちは、それぞれ習い事のいい場所を見つけ、楽しく通っている。

元のママ友パパ友の仲間と時々遊んでいる。

 

どうしても、かなえられずに苦しんでいたのが私の「仕事」だった。

T人事部長に前職に戻りたいと相談していたが、結局「これ」といった確実なポジションがなく、大丈夫です、と断りを入れた。

私も今思えば、「戻りたくなかった」のだ。

何一つ恥ずかしいことはしていない、皆口をそろえてそういう、だけど、たった1年半前に元夫の仕事についていくと退職した私が、苗字が変わって戻ってきたら、後ろ指を指す人だっているはずだ。私は身も心もボロボロになって帰ってきたのに、そんなことを想像するだけで耐えらえないと思った。

あんなに戻りたいと思っていたのに、「惨めで戻りたくなかった」

もし時計を巻き戻せるなら・・・辞めてはいなかった。

 

T部長の心配を大丈夫だと言って断り、始めた仕事は「英語講師」だったが、実際始めて見ると、「保育要員」であった。毎時間おむつ替えをし、噛みつきぐせのあるモンスターに引っかかれ、噛みつかれ、それでも、この仕事があるから広島に帰れた、という思いがあったから、自分を納得させようと頑張った。しかし、入社1週間後に手渡されたピアノの本、「練習しておいて」に、「ああ、違うな」

正社員。私は40代、ひと時もキャリアを積むためには無駄にしてはいけない。

速攻採用されたメーカーの通訳。遠いので早朝に出勤する私に、みいなが朝ベランダから私が見えなくなるまで見送ってくれた。ごめんね、我慢させて、でも頑張るからね・・・この仕事もいずれ不可抗力により、出勤できなくなる。

「あとは仕事だけ、仕事だけ元に戻れたら、私が掲げていた願いは叶うのに。」

同業種に応募すると面接までこぎつけたが、相手はただの興味本位であった。

私の履歴書をみて、ほほう、と。戻ってきた理由までさらして面接に来ている私に、根掘り葉掘り私の経歴、経験を聞き出し、不採用とした。

 

同時に、ずっと連絡をしたくてもためらっていたある人がいた。Mさんとは、前職のとき、同じ職種の窓口として会社を超えて付き合いがあった。経験の長いMさんに、よく相談の電話をしたものだ。そのMさんに連絡したいと思いながら、下心見え見えでいやらしい、と思い、どうしてもできないでいた。

でも、思い切って「実は戻ってきています」と連絡してみた。

Mさんはすぐに人事とのアポを取ってくれた。

会社に出向くと、笑顔のMさんが、前職での私の仕事ぶりを伝えてくれており、人事担当者を通じ、あっという間に選考が進んだ。役員面接の前には、『もう現職に退職を伝えて大丈夫です。内々定ですから。』とまで。

 

私は入社案内の封筒を抱えながら、

泣きながら家路についた。

 

東京から帰ってきてから、2か月ごとに仕事を変えていた。英語講師→保育要員、ピアノを弾く日本語講師  通訳→プレハブの簡易トイレの事務所で、通訳は週に1回。他仕事無し。

私はシングルマザー、仕事を選り好みしている場合ではないことは百も承知。

この4か月間の意味は分からない。自分が何をしたいのか、を考えさせられる時だったのだろうか?私は結果的に、ご縁のあったMさんを通じ、前職と同業の仕事を、しかも以前と同じ部署で仕事が出来ることになった。

 

めぐり合わせ、だろうか。

 

いま高らかに言おう。望みはすべて叶いました。

 

夫選びに失敗したけれど。→私は初めから、この夫を望んではいなかったのではないか?願いではなかったのではないだろうか。